「愛と光と巡礼の夏」第四十話(最終回)

「愛と光と巡礼の夏」第四十話(最終回)

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 メディアの力は大きい。費用を掛けた一方的な宣伝と違い、ニュースとして報道されたパブリシティには信頼と関心が集まる。ただし報道内容は藤倉の作品より藤倉家のパリから今に至るストーリーに興味が集中し、パリ生活から帰国した美しい藤倉母娘の映像が長く流れた。

 初日の報道は反響を呼んで来場者を増やし、翌日は他のメディアも追従した。反応がいいとメディアはさらに追い続ける。ネットでもブロガーによって好意的にコメントされ、版画の売れ行きは予想を遥かに超えた。そして展示される各版画限定45のシリアルナンバーは徐々に数を増やしていった。

 一方パリでも数日後、日本での反響が報道され、40枚程の版画は最終日を待たずにほぼ完売との知らせがドゥプースの興奮した声で祥子に告げられた。そしてドゥプースは、日本へ持ち帰った作品を少し送り返せと迫った。しかし祥子は今回の遺作展で売り切ることを躊躇い、その申し出を断った。

 インターネットの検索キーワードで「マニエル・ノアール」と「藤倉篤志」によるアクセスが、ヤフーやグーグルのデータに顕著に現れた。世話人である鷹山の工房サイトのアクセスにも影響し、日毎に問い合せのメールが増えた。サイトには瞬が綾奈とステンドグラスを巡って旅したブログがあり、綾奈が描いた旅のイラストや、藤倉の版画も掲載されていたのだ。
 メディアの取材は鷹山にも及んだ。藤倉とのパリ留学当時やマニエル・ノアールについてコメントを求められたのだ。

 わずか6日間の遺作展は大盛況で、まるで予期せぬ季節外れの嵐のようだった。しかしその後も、後処理に終われる二人への取材攻勢はエスカレートした。

 5月に入ると、検索キーワードはやがて「藤倉綾奈」と移り、若く可愛いパリジェンヌとしての綾奈の画像がネット上を飛び交った。話題となった綾奈は女性誌を問わず取材の依頼が後を絶たず、日を追う毎に父藤倉を離れ綾奈個人への関心に移った。週刊誌は綾奈の一日をグラビアで飾り、女性雑誌のモデルとしてのオファーまで舞い込むようになった。

 瞬はわずか1ヶ月の間に、一躍アイドルに祭り上げられ、メディアに振り回される綾奈の心の変化が気になり始めた。
 
 パリ在住時日本雑誌のレポーターでもあった祥子にも、出版社から新たな企画と原稿依頼が殺到し、二人は驚きと戸惑いの中でその対応に追われた。

 帰国した日から、祥子は札幌に帰る迄と工房の離れを間借りし、綾奈は瞬のアパートで一緒に生活していた。そして綾奈は毎日瞬のバイクで工房へ行き、祥子と一緒に工房の応接室で仕事をした。

 鷹山は思いも寄らぬ反響の大きさに、喜びとともにその異常な展開に違和感も感じ始めた。それは祥子も同じであった。
 藤倉の作品はおよそ半分を販売し終えたところで中止した。それは祥子と鷹山の共通の思いで、全てを手放すと一時の話題で終わってしまう危機感を抱いたのだ。

 それぞれの思いを抱きながらある夜、工房で祥子と綾奈の今後について話し合った。

「篤志の作品や存在がこんなに早く広く伝わった事に感動しています。でもそれは余りにも劇的過ぎて、篤志の思いがどう伝わったのか、今はそれが心配です。鷹山さん、これで良かったのでしょうか」

「祥子さん、何が云いたいか分かるよ。しかしまずは私達が計画したことのほぼ全てが達成された。大成功だよ。打ち上げの席で画廊の滝沢氏が云ったでしょう。画廊人生で未だかってない興奮を味わったって。藤倉さんの作品はそれだけ衝撃的だったんだ。特に死を悟り、それを覚悟しながら彫った壮絶な魂の作品には少しの妥協もない。だからこそ、彼の芸術家としての人生にメディアも来場者も関心を持ち、あれだけの反響を呼んだのだよ」

「それは本当に嬉しいことです。でも、最近専門家やマニアの人々から否定的な厳しい評価が出始めましたね。メディアによる過度の評価に対する反発なのでしょうか、それが気になります」

「フランスで生まれたマニエル・ノアールは一時忘れ去られていたけど、パリに渡った長谷川潔によって復活され、高い評価を受けた。彼はもういないがその評価は高まるばかりだ。そしてカラーメゾチントと云う新しい技法で、黒い銅版画に色彩を加えた浜口陽三の存在も大きい。彼も亡き人であるが、世界の版画界に大きな存在感を残している。特にその二人の功績は偉大で揺るぎないものなんだ。そこに突然藤倉さんが登場した訳で、それを直ぐに認めてもらえる程甘い世界ではない。つまりその真価が本当に評価されるのはまだまだ先の話だと思う。作品の価値はそれを作った天国の本人が一番よく分かっている。人の評価と真の価値との間には溝があって当然だ。専門家が厳しい評価を下すのはそれだけ注目しているからだよ。長い年月をかけて時代と作品がどう触れ合ってその溝が埋まるか楽しみに待ちましょう。その為にこれからも藤倉さんの残した素晴らしい仕事を大切に伝えて行くことだ。それが祥子さんと綾奈の藤倉さんへの愛の巡礼だと私は思う」
 鷹山の言葉に祥子は安堵するように笑顔でうなずいた。

すると隣に座る綾奈が涙ぐみながら云った。
「小父さま、私昨日瞬に叱られました。その意味が今初めて分かりました」

 瞬が昨夜、雑誌モデルの仕事に乗り気な綾奈に苦言を呈して強く反対したのだ。

「綾奈は今回の遺作展が何の為だったのか忘れてしまったね。君を優しく包んで育ててくれたお父さんへの愛じゃなかったのか。その話題に乗っかってモデルへ転身か。そしてタレントになってお父さんの宣伝でもしてあげようと云うのか。冗談じゃない。一年もしない内に君の旬は過ぎて忘れ去られたパリジェンヌさ。おまけに藤倉さんまで笑い者にされて、お父さんはパリで終わりにしたかったと思うはずだよ。綾奈、今の君は自分を見失っている。俺にはそう見える。それともそれは俺の嫉妬か。いや違う、絶対違う、俺はお前を愛しているから我慢できないんだ」

 瞬は一気にそう捲し立てると、拳を強く握りしめて綾奈を睨みつけた。
 綾奈は自分を責める瞬の強い言葉に、声を上げて泣きながら言い返した。

「瞬ひどいよ、いきなりそんなひどい言葉で攻めるなんて、私はモデルにもタレントにもなりたいなんて思ってない。皆が喜んでくれると思って、昨日は瞬も凄い話だって喜んでくれたじゃない。だから少しの間だけと思ったのよ。それもお父さんの為だと思った。そんな、自分を見失った自惚れた女に見えたなんて、瞬はひどい。悲しいよ。そんな日本ならパリに帰りたい」

 瞬は予想もしない綾奈の強い反撃に言葉を失い立ち尽くした。

 二人の長い沈黙が続いた。二人は今云い放った自分の言葉と相手の言葉が頭の中で何度も行き交い、辛く悲しく切ない思いに絶え切れなくなった。金縛りのように身動き出来ない二人を救ったのは、通りから聞こえる救急車の音だった。
「あの音は俺達を救いに来たのかな」
そう云って微笑んだ瞬の言葉に綾奈も微笑みを返した。
 瞬が綾奈の肩に優しく手を掛けた。綾奈は瞬の背中に手を回し強く抱きしめた。
「ゴメンネ、こんなの初めてだったから驚いたの。本当は瞬の気持ちが嬉しかった。そして強い瞬がカッコよかった」
「俺も言い方悪かった、ゴメン。綾奈の事もっと理解してフォローして上げるべきだったよ」

 昨夜の出来事を聞いた鷹山は嬉しそうに祥子にワインを注いだ。

「これでやっと皆穏やかな日々に戻れそうだな。幸い出版の費用も出来た。あとは祥子さんのエッセイがまとまれば世に出せる。藤倉さんの作品とその軌跡を多くの人々に知ってもらいながらいい形で後世に残しましょう。しばらく時期を置いて、今度は藤倉さんの故郷である熊本や松本や札幌でも個展を開くといい」

「是非そうさせて下さい。私は来週熊本の篤志の実家にご挨拶に行き、ご両親のお墓参りをしたいと思います。それからもう札幌に帰ることにします。両親はもう歳ですから今の内に親孝行しないといけないし。原稿作りはどこでもできますし。瞬ちゃん綾奈を宜しくお願いね」

「了解です。実は来年の春、僕達はパリで式を挙げようと思います。綾奈のお父さんの心が残るモンマルトルの丘で。そして帰ってから松本で披露宴を行います。昨日の晩二人で決めて、松本にも知らせました。先生は仲人ですからお身体に気を付けて」

「やれやれ、幸せ三昧でいいな。しかし田園調布のお婆さんの調子もだいぶ良くなったみたいだし、早い方がいい。ご両親も喜んだだろう」

「はい、そしたら、俺達もパリに行くと云いまして。帰りにグラナダにも寄ろうかなんて、最近親父のご機嫌がいいんです」

 松本の父親は、アンドレスとその後も村田玲子を介して文通をしていた。その玲子は来春の卒業を機にマドリッドに留学する予定だと云う。

 グラナダで知り合った高橋夫妻は藤倉の遺作展に現れた時、八ヶ岳にログハウスのペンションの建設が始まった事を告げ、建物の横に小さな聖堂も建て、失った二人の娘の冥福を祈りたいと話した。そして聖堂には瞬のステンドグラスと綾奈のイラスト画が欲しいと依頼していた。

 それぞれの愛と光と巡礼の旅は、新たな道を歩みながらそれぞれの聖地を目指して旅はつづく。

                                                                      おわり

あとがき:皆様、長い間お読み下さりありがとうございました。つたない素人小説で、恥ずかしながらも皆様の暖かいご声援で完結する事ができました。来月、7/7〜30まで、私は一人でマドリッドからパリまで、又バイクでこの小説のコース旅します。各地の真夏の新鮮な美しい風景をカメラに納め、あらためてこの小説の全文を補修し沢山の画像と共に掲載します。小説と云える程の質は無理ですが、観光のガイドブックとしてでもお読みいただけたなら幸せです。その旅の個人旅行記も書く予定です。私の過去の旅行記は http://junet.co.jpでご覧頂けます。ありがとうございました。  <HEADこと東賢太郎>
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# by june_head | 2009-06-11 02:20 | 第四十話:最終回  

「愛と光と巡礼の夏」第三十九話

「愛と光と巡礼の夏」第三十九話  (次回は最終回)

 年が明けた2月1日、鷹山は藤倉の遺作展の打ち合わせの為パリを訪れた。時間があればその帰りにセリニャンのデュラン夫妻の家にも訪問する。
 空港には綾奈が出迎えた。
「ほれ、瞬からの手紙だ。毎日テレビ電話で話しながらラブレターもかよ。いいなラブラブで」
「手紙は愛情の証明書ですもん。何度でも読み返せるし、小父さまもパリから奥さんにお手紙書いたらどうですか。喜びますよ」
綾奈はそう自慢しながら封を切った。
「冗談じゃない、そんなことしたら何かあったのかと疑われるだろう」
鷹山のその言葉に笑いながら走り書きの大きな文字を追った。

「綾奈、パソコンのディスプレーのせいかな、昨日の綾奈の顔が少しぽっちゃりして見えたぞ。パリは寒いだろうけど、余分な脂肪に気を付けなよ(爆)。最近の先生は人使いが荒くて俺は少し痩せたよ(泣)。もう少し可愛がるように云ってくれ。くれぐれも遠回しにな。それから綾奈の帰りを松本のお袋が楽しみに待っている。瞬」
 読み終えると綾奈は手紙をポケットにしまい
「小父さま、さっきの私の言葉は全面的に取り消します。瞬の奴ふざけてます。もっとこき使って下さい」
そう云って歩き出した。

 綾奈は鷹山の希望でセーヌ川で車を止め、二人で川沿いを散歩した。冬のパリは寒く陽の落ちるのも早い。しかし鷹山は久しぶりの冬のセーヌ歩きたかった。貧乏な留学時代は、暖房のない屋根裏部屋で寒さに震えながら質素な食事に耐え、風邪の高熱で何日もベッドで苦しんだ。パリの記憶ではそんな辛い想い出が多かった。
 鷹山は辛い冬を2度乗り越え、ステンドグラス工芸学校を卒業して今がある。今ではそれを懐かしく振り返る事が出来るようになっていた。
 セーヌ川沿いのルーブルや大聖堂はライトアップされ、水面にその灯りがゆれて優しく鷹山に語りかけた。
「あの頃は若かったね。君だけじゃない、皆がひとりここで祖国を思い出していたのさ。懐かしいだろう。私達は永遠にここを動かない。又いつでも待っている」
 鷹山はそう聞こえた気がして癒された。

「綾奈、お母さんの様子はどうだ」
「ドゥプースさんと父の作品を整理しながら、今エッセイを書いています。篤志の一番のファンは自分だからって」
「そうか、遺作展が成功したら自費出版でもいいから考えようか」

 二人はドゥプースの画廊へ向かった。遺作展の打ち合せの為、祥子もそこで待っている。画廊はフォーブル・サントノレ通りのエリゼ宮殿近くから少し北に入った通りにある。
 画廊ではドゥプースとその息子ジョアンも待っていた。鷹山は藤倉を介して何度もドウプースと会い、5年程前にはシャルトルでのステンドグラスの個展をサポートしてもらった。

 一階は狭く、前衛的な油絵が10枚程展示され、藤倉の版画は広い地下展示室に他の作品と一緒に並んでいる。
 ドゥプースは祥子と鷹山を誘って下に降りて行った。残されたジョアンと綾奈は久々の再会で少し気まずい空気が流れた。

 綾奈がジョアンに会うのは父の葬儀以来だった。久しぶりに見るジョアンは長い髪を切り、以前より大人びてたくましく見えた。

「綾奈、その指輪はシュンからのプレゼントか?」
「そうよ、去年のクリスマスにもらったの。私達婚約したの」
「そうか、おめでとう。実は、僕は又弓子と又付き合い始めたよ。クリスマスの前に電話があってね、前と違って彼女は真剣に絵の勉強をしていた。弓子は日本で恋人に裏切られてパリに来たんだ。その時は真剣な恋も日本人もいやで、パリで2年程遊んで帰るつもりだったらしい。しかし彼女は僕と別れてからしばらくパリを離れて各地の美術館を廻り、気持ちが落ち着いたらしい。1年振りに会った弓子は人が変わったように穏やかだった。見失っていた自分を取り戻したんだ。弓子は本当はいい娘だったんだよ。彼女は綾奈に申し訳なかったと云っている。実はもうすぐここへ来る。弓子に会って欲しい。綾奈に謝りたいと云っている」

 突然の申し出に綾奈の心は動揺した。2年振りとはいえ、裏切って自分の恋人だったジョアンを奪い取った女性だ。それが原因で綾奈はパリを出て日本へ行った。思い出したくもない過去に綾奈は会うのを躊躇った。
その時、綾奈の携帯が鳴った。瞬からだ。
「綾奈、先生はもう画廊に付いたかな。打ち合わせが上手く進んで欲しいな。綾奈とお母さんの喜ぶ顔が早くみたいよ」

 綾奈はその声で幸せな今の自分を取り戻した。自分を待ってくれている恋人がいる。母を愛してくれる瞬がいる。もう何も恐れるものはない。綾奈の心は一瞬にして平静を取り戻した。
「ジョアンいいわよ、弓子さんに会うわ。ジョアンが幸せならそれでいの」

 しばらくして弓子がショーウインドウの向こうに現れた。以前の弓子とは見紛う程シンプルな化粧と服装で、不安そうな顔でこちらを見ている。ジョアンが迎えに出て中に招き入れた。
 入口に立ち、綾奈を見つめる弓子の目は潤んでいた。それを見た綾奈は全てを許そうと思った。綾奈が差し出す手を弓子は握り二人は固く抱擁した。
「ゴメンナサイ」
か細い声で云う弓子の言葉に綾奈は優しく応えた。
「もういいのよ。お互いに幸せになりましょう」

 綾奈と弓子はしばらく見つめ合い、やがて二人の顔は笑顔に変わった。
「これからはいいお友達になれるわね」
綾奈の言葉に弓子はうなずき、綾奈の頬にキスした。

 二人の様子にホッとしたジョアンは、弓子の手を優しく握り遠慮がちに云った。
「弓子、綾奈はシュンと婚約したそうだ。僕は弓子を愛してる。僕と結婚して欲しい」
綾奈の目の前でプロポーズしたのだ。突然の申し込みに驚く弓子は戸惑いながら綾奈の顔を見た。またしても突然すぎる展開に綾奈も戸惑った。しかし綾奈はうなずいて弓子にゴーサインを出した。そう応えるしかなかった。弓子はしばらくジョアンの顔を見つめ、「ウィ」と応えてキスをした。

 綾奈は目の前の一瞬の出来事に、一人取り残されたようで腹立たしくなった。
「瞬は何でここにいないの。小父さまと一緒に来ればよかったのに」
そう思いながら綾奈は足早に階段を降りた。

 下では3人が藤倉の作品を壁際に並べ選別していた。日本の自然をテーマとした作品が多かった藤倉は、最後の1年間パリやプロバンスの風景も数多く彫り残した。すでに視力を失い、体調の悪化を自覚し、死期を意識し始めた藤倉の中で何故か愛おしく沸き上がった風景だった。祥子はその変化の訳を察し、切ない思いで過ごしていた。
「タイトルも決めて帰りたい、ポスターや案内状の印刷があるし、メディアへのPRもそろそろ必要だ」
 鷹山の言葉に、祥子は心に決めていたタイトルを皆に告げた。
「藤倉篤志 闇、光、巡礼、」

 誰の異論もなくそう決まると、ドウプースが思い立ったように提案した。
日本と同じ期間、この画廊でも遺作展を開くと云うのだ。大きなPRは出来ないが、同時開催の同じポスターを使い、藤倉の軌跡を残したいと云う。
「それは意義がある。それに日本のメディアへのインパクトもある。いいアイデアだ。是非そうしよう」

 いきなり飛び出した案であったが、その後の打ち合わせもスムースに進み、一同は近くのレストランで食事をして別れた。

 藤倉家に戻った3人は、祥子と綾奈の帰国後の生活について語り合った。
綾奈は帰国後瞬と生活を始める。祥子は遺作展の後、しばらく札幌の実家に戻り、時期を見て綾奈の近くに住み仕事を考える。それは綾奈の希望でもあった。

 翌日、鷹山はシャルトルを経由してセリニャンへ向かう為、ひとりヴィレモンブルの家を出た。瞬と綾奈がシャルトルに残したガラスの一片を見に、そしてセリニャンのデュラン夫妻を訪ね、パリ留学時代に鷹山が制作し、現在デュランの家の窓に設置されているステンドグラスと再会する為だ。

 車中の鷹山は目をつむり、パリ留学当時の藤倉や祥子の若かりし姿や声を思い出していた。それは鷹山にとっての人生のベルエポックである。

 日本に帰ると、まだ多くの仕事が待っている。5月には横浜市制150年記念事業で任された開港記念館のステンドグラスの修復も完了させねばならない。つかの間の旅は駆け足だが、鷹山にとって心を癒される時間であった。


 いよいよ藤倉の遺作展が銀座の画廊で始まった。準備で10日前に帰国した祥子と綾奈は、後援を引き受けたフランス大使館をはじめ、高橋夫妻の便宜で紹介された大手広告代理店等への挨拶回りを行った。その甲斐もあり、二人は初日から思いも寄らぬ沢山のメディアの取材攻勢に追われた。
 毎日景気悪化の暗いニュースに明け暮れるメディアにとって、パリ在住であった美しい母娘が、パリで死去した夫と父親の遺作展をパリと銀座で同時開催すると云う企画に飛びついたのだ。
 その夜の報道は思わぬ反響となって祥子と綾奈の生活を一変させた。

次回の最終回は6/10にアップ予定です。
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# by june_head | 2009-05-31 21:06 | 第三十九話  

「愛と光と巡礼の夏」第三十八話

「愛と光と巡礼の夏」第三十八話

 久々ワインで語り明かした3人は、工房のキッチンで朝食を取りながらテレビのワイドショーに注目していた。

 前日アメリカの証券大手リーマン・ブラザーズが経営破綻し、ニューヨーク株式市場は2001年世界同時多発テロ以来の大暴落を記録。既に数週間前より世界の金融バブル崩壊が表面化し、日本の株式市場も下落が始まっていた。今後世界経済にどのように影響するか先が見えない状況であったが、センセーショナルに告げる報道を、3人は余所事のように受け止めていた。

「こう云う時は、株と縁のない俺達は呑気なもんだよな。実感がないもん」
繁田の言葉に瞬も続けた。
「オイルが下がって、円高傾向だし、海外旅行がし易くなるじゃないですか」
二人の言葉に鷹山が少し顔をしかめて云った。
「いや分からんぞ、景気が後退すると建設関係に影響が出るからな、俺の仕事は設計事務所やゼネコンとの関連が深いからな、少し気になる」

 そのリーマンショックはやがて全世界に広がり、秋が深まるにつれて日本もバブル崩壊以来の不況の波に飲まれていった。
 ガラスの発注の為フランスに向かうはずだった鷹山は渡仏を延期し、しばらく情勢を見極めることにした。景気の悪化によっては建物の建設が延期、又は中止の可能性もあり、受註していたステンドグラスのキャンセルや延期が予想されるからだ。

 繁田の心配は徐々に現実となっていった。個人住宅の仕事にはまだ影響はないが、大規模なステンドグラス制作には巨額の予算が必要で、ステンドグラスと云う贅沢な芸術作品は必ずしも必須工事とは見なされず、費用削減会議の筆頭に出ることになるのだ。

 高層ビルのメインロビーに設置が決定した2年計画の大きな仕事も、その2ヶ月後に見直しの為ペンディングの連絡が入った。ガラスの発注を控えていた鷹山の勘は悲しくも的中したのだ。

 瞬はフランスの景気情勢も気になっていた。パリの綾奈とのテレビ電話で、藤倉の本の出版と遺作展の計画が遅々として進んでいない報告を受けていた。画商のドゥプースは約束通り藤倉の作品を全て画廊で預かり、何枚か展示しているが、世界不況となった今、売れ行きは思わしくない。

 12月に入り、フランスでは自動車メーカーであるルノーや、プジョー・シトロエングループの売上激減が伝えられ、サルコジ大統領が2年間でおよそ3兆円の景気対策を発表した。フランスでまだ名の知れぬ藤倉篤志の遺作展やその本の出版などもう風前の灯火である。 
 そればかりではない、日本の自分達の工房も経営的に大きな打撃を受けている。メディアはこの世界不況は長期化し、今後さらに深みに落ち込んで行くであろうと告げている。

 瞬はパリの二人のことが気が気でなかった。その計画実現が不可能となった今、二人を早く日本へ呼び戻そう。日本でなら藤倉の遺作展は可能である。二人の気持ちが落ち込んで思わぬ方向へ心変わりせぬ内にそれを説得しなければならない。

 12月24日の朝、瞬は成田を発った。クリスマスイブを綾奈と二人で過ごす約束は綾奈がパリに戻る成田空港で交わしていた。
 
 瞬は空港で出迎える綾奈の笑顔を想像しながら入国ゲートへ走った。しかし出口に綾奈の姿はなかった。瞬は焦りながら人ごみに綾奈の姿を必死で探した。いやな予感が頭に浮かんだその時、瞬は後ろから強く抱きしめられた。
 瞬は叫びたい程の気持ちを抑えてゆっくり振り返った。
二人は無言で見つめ合い、強く抱擁し合い、キスを繰り返した。
「馬鹿者、脅かすなよ」
「だってバイクではいつも後ろから抱きついていたでしょ。久しぶりに又そうしたかったの」
 いたずらっぽく笑う綾奈を瞬はもう離すまいと思った。

 綾奈の家で母の祥子も交え今後に付いて相談が始まり、祥子が口を開いた。
「私達は瞬ちゃんや鷹山さんの計画を受け入れて、東京での遺作展をお願いしようと思ったの。昨日ドゥプースさんへ話したら、作品は全て任せてもらう約束だからその計画には賛成できない。そうはっきり断られたの」

 瞬はそれ迄の成り行きを承知していたので、ドゥプースの承諾なくしては実現は不可能と察した。3人がいくら打開策を探っても解決索は出てこない。
瞬は状況を鷹山へ電話で報告した。
「俺が電話で直に話してみよう。向こうも商売人だ。ビジネスになれば考えも変わるだろう」
鷹山の自身に満ちた言葉に3人は期待を持つことにした。
 藤倉の死後、祥子は日本人の団体旅行のガイドを始め、綾奈はパリ市内のカフェでアルバイトの仕事を得て生活していた。母と娘の生活は落ち着きを取り戻し、不自由のない生活ではあったが、主のいなくなった家は寂しく、出版と遺作展と云う目標を失った今、将来への不安を感じ始めていた。

 3人は水入らずのクリスマスイブを祝い、瞬は鞄から二人の為に用意して来たプレゼントを出した。綾奈へは一緒にバイク旅行をした時のアルバムと小さな菓子箱だ。綾奈はアルバムを懐かしそうに広げて祥子に見せた。瞬は祥子へ繁田の店で用意してもらった化粧品のセットをプレゼントした。
「いつまでもその美しさを保って下さい」
その言葉に祥子は笑顔で応え瞬を抱きしめた。

「綾奈、そのお菓子箱、中身は少し固いから食べれないかも」
綾奈は瞬の言葉に何かを予感した。
「そう、食べれないのね。瞬はいつもひどいいたずらするから恐いよ。今開けるけど覚悟しなさいね」
綾奈はそう云ってその小箱のリボンをゆっくり解いた。
柔らかな紙に包まれたリングが入っていた。綾奈の予想は当たっていた。

「綾奈の誕生石だろう。サイズは合っているはずだ」
綾奈の目が輝いた。ゆっくり左手の薬指にはめてみせた。
「ぴったりだわ。瞬、嬉しい」
綾奈はそう云うと瞬の首に手を回し強く唇を押しあてた。

「成田で私達の指輪を交換したわね。もしかして、と思ったわ」
「そうさ、そのつもりだった。この石はお袋が親父から貰った婚約指輪から取ってアレンジしたんだ。お袋は綾奈と同じ10月生まれでさ、是非これを使って欲しいと云われてね」
瞬は照れくさそうにそう説明した。

プラチナリングにファセットカットされた小さなファイアオパールだ。広げてみせる綾奈の指で美しく輝いた。
それを見ていた祥子が嬉しそうに云った。
「優しいお母様ね。綾奈、瞬ちゃん、おめでとう」

綾奈も瞬へのプレゼントを差し出した。それは葉書大程の小さな額に納められたイラスト画だ。瞬と綾奈がタンデムでバイクに乗る姿がカラフルに描かれている。そして上に「大好きな瞬と私」のタイトルが。
嬉しそうに見つめる瞬が驚いたように絵を指差して云った。
「何だこりゃ、バックミラーのガラスにひびが入ってるじゃないか」
「だって私を乗せて2度も転んだじゃない。その証拠を残しておきたかったのよ」

 三日目の朝だった。鷹山のかん高い声が朗報を伝えた。
「祥子さん、ドゥプースと話し合いが付いたよ。来年の春、東京で個展を開こう。彼にはたっぷりマージンを取られるけど、それでもいいじゃないか」
その知らせに祥子は嬉しそうに応えた。
「もちろんお金の事はいいんです。鷹山さん、本当に嬉しい、お世話になります」
「祥子さん、ドゥプース氏もホッとしたようだ。この不況さえなければ、自分がそうしてあげたかったと云っていた。彼の本心だよ。私は彼に感謝してるよ」

 その言葉に気丈な祥子も涙を流して喜んだ。それが祥子の一番の望みだったからだ。話を聞いた綾奈と瞬も抱き合って喜んだ。

瞬は5日間の滞在を終え、夕刻にパリを発った。瞬は灯りの灯り始めたパリの景色を眺めながら、フッと小さくため息をついて、目を閉じた。
つづく
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# by june_head | 2009-05-22 00:46 | 第三十八話  

「愛と光と巡礼の夏」第三十七話

「愛と光と巡礼の夏」第三十七話

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帰りの車は行きにも増して賑やかだった。
「アンドレス君、又いつでも松本に来なさい。いやそれより日本へ移住したらどうだ、玲子さんを奥さんにすればいい」
「ヘッド、又そんな余計なジョークを、二人はまだ若くて純粋なんだから」
瞬がフォローしたが、玲子は繁田の言葉をそのまま通訳した。そして
「アンドレス君には彼女がいるし、私にもね。でも歌もギターも素晴らしいから日本でもやっていけるかも」
そう付け加えて笑った。
瞬は一緒に笑うアンドレスの横顔がすぐに寂しげな表情に変わったのを見た。
自分の身体に日本人の血が混じる事実を確認し、今後ジプシーの社会でどう生きるのか、そして日本とどう関わって行くのか、アンドレスは複雑な思いを抱えて生きていくことになる。

「そうだ、新宿に長田さんが昔出演していたフラメンコバーがあると父が云っていた。末広亭のすぐ側でカディスと云う店だけど、まだあるかな」
それを聞いたアンドレスの表情が変わった。
「そこへ是非行きたいです」
カーナビで検索するとすぐに見つかった。
「今日も営業してるといいけど」
店の前に着くと地下に下りる入口の看板に、フラメンコのライブが案内され電気が付いている。
瞬と繁田は帰りに菊名の工房へ寄る約束があり、二人を降ろして別れた。

「瞬君、あの二人どうだ。彼女はスペイン留学も考えているんだろう」
「ですよね、確かに二人はいいムードだったし、そうなったら益々ややこしい事になりますよ」
「君も他人事じゃないぞ、綾奈とパリの元カレの話、鷹山から聞いたよ。遠く離れると女心は分からんから、アドバンテージは向こう側かも知れん。気を付けんとやばいぞ」
瞬はその言葉にハッとした。そんなことはないはず、とは言い切れないからだ。
「フランス語は愛を語るのに最高だ。愛情表現はストレートだしな」
繁田の追い打ちに、瞬は不安を打ち消すようにラジオのボリュームを上げた。

<ヴェールステンドグラス工房>
 工房に着くと鷹山がワインを抱えて笑顔で出迎えた。
「瞬に聞いたが、例のプレゼンが成功して受註したんだってな」
「今朝返事が来たよ。高層ビルの吹き抜けのロビーの壁面で、プレゼンの準備だけで3ヶ月、そして回答まで2ヶ月待たされたよ。胃が痛くなり始めていたが、やっと美味い酒が飲める。今日は二人とも泊まって行けよ」

 瞬は久々鷹山の満面の笑顔を見てほっとした。バイク旅行から戻った自分の話をまだ聞いてもらっていない。今夜はその話をゆっくりできそうだと思った。

「先生、製作期間はどのくらいですか。他の仕事も重なりますから大変ですね」
「納期いっぱいの2年、取り付けに1ヶ月はかかる。しかしヨーロッパの大聖堂の二百年や三百年と比べりゃ早いものさ。約4千万の仕事だが、ガラスの仕入れだけで半分近くかかる。ビジネスと考えたら儲からん仕事だよ」
鷹山はそう云いながら満足そうにワインを飲み干した。

繁田は鷹山のグラスにワインを注ぎながらため息をついた。
「2年もかかるのか。病気もできないじゃないか。しんどい仕事だな」

「ヘッド、そのガラスはほとんどフランスへ特注することになります。それを絵柄を考えて細かくカットし、何度も絵付けして重ね焼きして、最後に組み立てです。地味な作業の積み重ねで気も抜けません。でもそのビルがある限り、50年も100年もその場所で、毎日沢山の人々にガラスを透過した光を見て感じてもらえます。歴史に残るものですからやり甲斐があります」

「なるほどそうか、しかしこのコスト計算の厳しい時代にその価値を分かってくれる施主やゼネコンさんにも感謝だな」

繁田の言葉に鷹山がうなずきながら応えた。

「そうなんだよ、それをただの透明ガラスにすれば10分の1のコストですむはずだからな。いい仕事を残したいよ」

「先生、私はヨーロッパの大聖堂を巡って、その工人達が祈りの行為として製作した建物やステンドグラスを見てきました。大半の工人は完成しないまま何代にも渡って次の世代に引き継いでいた訳ですね。私も先生亡き後はその仕事をしっかり引き継ぎますからご安心下さい」

瞬のジョークに繁田は声を上げて笑い、鷹山は負けじと切り返した。
「それは遠慮しとく。今の瞬に引き継がれるより、未完の作品として残す方が価値は高いからな。それより瞬はパリの綾奈のことを心配した方がいいぞ。向こうで引き継ぎされないようにな」
「ほれ見ろ、瞬やぶ蛇だったな」繁田が又大笑いした。
「いえ、大丈夫です。今晩電話で綾奈の心にしっかりパスワードを掛けておくし、クリスマスは又パリに行きます」
瞬の毅然とした言葉に、鷹山は繁田の顔を見て云った。
「繁田、こいつ少し成長したな。仕事の事より恋愛の方でな」

瞬は苦笑しながらバイク旅行の話題に入った。
「シャルトル大聖堂での時間と空間は貴重な体験でした。藤倉さんが死をもって私に問いかけてくれた光と闇の意味も分かった気がします。これからの私の仕事の起点になります」
瞬は早朝の聖堂を独占して見学出来たいきさつや、静寂のなかで聖堂に差し込む光の波長を感じながら歩いた感動をひとつひとつ思い出しながら鷹山に話した。

「そうか、よかった。とにかく本場の古典技法を数多く見て廻ったんだ。
それだけで分かるもんじゃないが、いい刺激になっただろう」

「私は色ガラスや絵付け以上に、鉛の桟の大胆なラインの取り方が凄いと感じました。でもそれをどう学べばいいか、難しいですね」
「そこだよ、私ですら毎回苦しむところだ。黒く太いラインの存在は、中世以降の画家達にも影響を与えて、油絵の作風にも見る事があるくらいだ」

 繁田は既に横のソファーで大きな鼾をかいて熟睡している。

鷹山はガラスの発注の為、来月フランスへ行く予定を瞬に話した。
「サンゴバン社へ行くついでに、セリニャンへも寄って来る。デユラン夫妻との再開もそうだが、私のパリでの作品がプロバンスの光を浴びて今も生きているなんて嬉しい事だ。パリの藤倉母娘ともゆっくり話をしてくる」
「藤倉さんの遺作展が早く実現できるよう願っています」
遺作展が終われば、綾奈は母祥子を連れて日本へ帰って来る。瞬は今はそれが一番気がかりだった。

つづく(次回38話は5/20、最終回は5/31の予定です)
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# by june_head | 2009-05-10 20:24 | 第三十七話  

お知らせと登場人物

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<登場人物>

杉岡 瞬(25才):新宿区四ッ谷で生まれ、5才で松本へ引っ越し高校卒業。東京の美大を卒業し現在横浜市菊名にあるステンドグラス工房(主宰者は鷹山)に勤務。綾奈と知り合い、二人でマドリッドからパリまで大聖堂のステンドグラスを巡って2週間のバイク旅行をする。

杉岡武史(59才)(松本で育ち、東京に出てバイクレーサーとして活躍したが、レース中の接触事故でライバルが死亡。責任はなかったがメディアの攻撃を受け、引退し松本に帰りバイクショップを経営。

杉岡真知(55才)田園調布育ち。レースクィーンとして武史と知り合い、同棲から結婚し、瞬とその妹菜月を出産。

藤倉綾奈(22才)パリで生まれ育ち、1年前に両親の友人である鷹山(ステンドグラス工房代表)を頼って来日。イラストの仕事と川崎の化粧品店ジュネでアルバイトしながら日本での定着を目指す。工房で知り合った瞬とスペインとフランスの大聖堂を巡るバイク旅行へ。

藤倉篤志(61才)熊本出身。綾奈の父。東京の美大卒業5年後パリに移り画家として活動したが、15年程前から視力を失い、版画家に転身。鷹山は美大の後輩で彼のパリ留学時代に助けた。

藤倉祥子(53才)綾奈の母。札幌育ち、語学留学でパリに行ったが、パリの藤倉と結婚。綾奈を出産。

鷹山剛Gou(60才)東京出身。美大油絵科卒業後、ステンドグラス工房で働いた後パリの国立ステンドグラス工芸学校へ留学。帰国後横浜に工房を開く。杉岡瞬の恩師。

繁田賢太郎(60才)川崎市高津区で化粧品店経営。鷹山とは小学校の同級生。杉岡とはバイクが縁で付き合いが長い。海外ツーリングの経験が多く、通称ヘッドと呼ばれている。

板倉重子(92才)真知の母で、瞬の祖母。子供達が小さな内に夫を亡くし、家業の魚仲卸業で育て上げた。現在は息子が継いでいる。

ジョアン ドゥプース(26才)綾奈のパリ時代の恋人だったが、浮気が原因で別れた。しかし、綾奈がパリを離れて日本へ行ったことで復縁を迫る。

ドゥプース(57才)ジョアンの父でパリの画商。綾奈の父藤倉の作品の良き理解者でその版画を販売する。

ホセ(43才)マドリッドでバイクのレンタルショップ「ハッピーライダー」経営。妻は日本人の香代で、瞬のバイク旅行をサポート。

香代(41才)スペイン留学でホセと結婚し、二人の娘を出産。ホセの仕事をサポート。

カルメラ(48才)グラナダに住むヒターノ(ジプシー)のフラメンコダンサー。日本人のオサダと一時期暮らしたが、オサダは死亡。

アンドレス(20才)カルメラの息子でブラメンコギター奏者。

高橋夫妻(60代)瞬と綾奈がグラナダで知り合った夫妻。二人の娘を失い巡礼の旅の途中だった。グラナダでデジカメを盗まれた。

村田玲子(21才)外語大でスペイン語を勉強する学生で、渋谷で瞬とアンドレスに出会い、松本へ通訳として同行した。

<所在地他>

ステンドグラス工房:横浜市菊名駅に近い高台。

ジュネ化粧品店:川崎市高津区梶が谷駅前

綾奈のパリの実家:パリ郊外ヴィレモンブルの住宅地

杉岡真知の実家:田園調布

杉岡瞬の実家:瞬が5才の時、一家は父武史の故郷松本にもどりバイクショップを営んでいる。

バイクショップ ハッピーライダー:マドリッド郊外バハラス空港に近い。(現存のレンタルバイクショップ)

ツーリングで使用のバイク:HONDA-XL650V "Transalp"

最終回は6/10アップ予定です。
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# by june_head | 2009-05-01 14:47 | お知らせと登場人物  

「愛と光と巡礼の夏」第三十六話

「愛と光と巡礼の夏」第三十六話
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 翌朝、梶が谷駅にアンドレスと玲子が降り立った。白いポロシャツに真新しいリュックを背負ったアンドレスは右手に黒いギターケースを下げ、これから始まる父の軌跡を探る旅に期待と緊張の思いだ。
 玲子はボーダー柄のシフォンのワンピース。膝上丈の裾をふわふわと揺らしながら階段を昇った。玲子は昨日偶然に出会った若いスペイン男性の心の旅に、通訳として付き添うことに心はときめいていた。

 瞬は改札口で二人を出迎え、駅前の繁田の店に案内した。化粧品店ジュネはちょうどシャッターが上がり、繁田がスタッフと共に開店の準備をしている。瞬は繁田に二人を紹介した。
「おう、来たか。ブエノス ディーアス セニュール」
大学でスペイン語を少し学び、スペインへ何度も旅した繁田はアンドレの訪問を聞いた昨夜、彼に伝える言葉をスペイン語で話そうと準備していた。流暢に話す繁田のスペイン語にアンドレは驚き、それは安堵と期待を感じさせた。
「ヘッド凄いですね、しゃべれるんだ」
瞬の言葉に玲子も続けた。
「ほんと完璧ですよ。感動しました」
「いや〜予習してたからね。ここから先は玲子さんの通訳が頼りだ」
繁田はそう云いながらもゴキゲンで、すぐに車を出しに駐車場に向かった。

 4人は車中賑やかに話しながら中央高速を休まず走った。相変わらず奔放にしゃべる繁田だが、時折助手席のアンドレスを気使い時折玲子に通訳させた。
アンドレスは黙ってうなずきながら、見える景色を心に刻み付けながら何度もカメラのシャッターを切った。
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 松本インターが近付くと、遠くに穂高連峰や北アルプスの山々が見え、緑の野山に囲まれる松本の美しい自然が皆を迎え入れた。
 南スペインのグラナダは、荒涼とした岩肌と乾いた平原に囲まれ、このように緑に包まれた景色はない。
「ほら君のお父さんが見て育った日本のシエラネバダだよ」
瞬の言葉を玲子が伝えると、アンドレスは窓に顔を押し付けてを眺めた。
インターから10分程で杉岡のバイクショップに到着した。

「アンドレス君、杉岡が店にいるはずだ。先に行きなさい」
繁田に促されてアンドレは車を降りてひとり店の入り口に立った。
店内で作業していた繁田は、入口に立った逆光のシルエットがすぐにアンドレスと察した。立ち上がってじっと見つめると、20数年前に別れた長田の姿が浮かび、思わず「長田」と声をかけそうになった。

「コンニチハ、アンドレスです」
「待っていたよ、よく来たね」
杉岡は握手しながらアンドレスの顔をまじまじと見た。
他の3人も降りてアンドレスの後ろに立った。
「繁田、長田の息子に間違いない。奴の若い頃にそっくりだ」

「アンドレス君は明後日成田を発つ予定なんだ。今晩泊めてあげたい」
「そうしなさい。俺もゆっくり話したい」
杉岡は皆を2階の居間に誘い、真知も交えて話をした。

 瞬は昨日アンドレスから聞いた長田のあらたな情報を父に伝えた。
「長田さんは、グラナダに住み着く3年前にもフラメンコギターの勉強の為に2ヶ月程滞在して、その時ジプシーのフラメンコダンサーであるカルメラさんと知り合ったらしい。そして2度目の訪問の時、カルメラさんの親族にお金を渡して一緒に生活させて欲しいと云ったそうです。不法滞在になろうと、もう日本へ帰る気持ちはないと。そしてフラメンコギターの腕を上げ、ジプシーの社会でずっと暮らしたいと云ったそうです」

 杉岡はその長田の気持ちが理解出来た。妻を自殺に追い込み、故郷も追われた長田の行き場はそこしかなかったからだ。杉岡は用意していた長田の写真を差し出した。中学から高校の頃の数枚だ。アンドレスはそれを食い入るように見つめた。似ている、と云う皆からの言葉にアンドレスは嬉しそうに微笑んだ。
杉岡は長田の最後を詳しく知りたかった。それをアンドレスが話し始めた。

「日本へ来る前に母に全てを聞きました。父は、初めてのステージで母と共演し、成功しました。その興奮で酒を飲み、他のギタリストと喧嘩になりました。そして相手を倒し、そのギターを壊したのです。その相手は母の前の恋人でした。次のステージのある1週間後の夜、現れないので探すと、父はダロ川の河原に腹から血を流して死んでいました。母は事故か自殺だったと云っています。その喧嘩の相手はその後私にギターを教えてくれた師匠でしたが、昨年病気で死にました。私にとって絶えられない程悲しいことでした。
その人はすばらしいギタリストで、私を子供のように可愛がってくれ、私は今でも尊敬しています」

 杉岡が口を挟む事の出来ないグラナダでの昔の出来事である。長田の息子アンドレスの刹那く数奇な運命を憂い、胸が締め付けられる思いがした。

「そうでしたか、分かりました。話してくれてありがとう。今日と明日はお父さんが暮らした松本をしっかり見て行きなさい。案内しますよ」
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 杉岡は長田の生家や育った町や自然を車で案内した。そして長田がいかに心優しく魅力溢れる男であったか話して聞かせた。

 アンドレスはスペインから履いて来た父親の靴を山の見える場所に埋て墓標を立てたいと云う。
「いい場所がある。いつか別荘を立てようと確保してある土地がある。野麦街道を行った安曇村のあたりだ」

 瞬は墓標になる白樺の木と板を準備した。アンドレスはその板にスペイン語で言葉と名前を書いた。瞬はその文字を彫刻刀で彫り貫き、裏には皆の名前も書き入れ、サッシで枠を囲った。

 夕食の後、アンドレスは2階のテラスでしばらく星空を見上げていたが、散歩に出たいとひとりギターを抱えて出かけた。

「今夜はひとりにさせてやるか。瞬、繁田、俺達は一杯やりに行こう」
杉岡は瞬に運転させ中町にある馴染みの居酒屋「穂高亭」へ誘った。

 店主は杉岡の中学時代の同級生で、杉岡は妻の真知を連れて1日おきに訪れる店だ。わずか10坪程の店で、

 「瞬ちゃん、久しぶりだね。おや繁田さんもか、お揃いでどうしたんだ、恐いな〜」
「親父さん、今夜の杉岡は飲むからね、やばいよ」
「馬鹿やろう、余計な事云うな」
瞬は繁田と父の言葉に首を傾げた。

 三人はカウンターに座りしならくアンドレスの話で盛り上がっり、杉岡も久々心置きなく飲んだ。

「ヘッドさっきのヤバい、とはどう云うこと、綾奈を松本に連れて来た時、ヘッドが内の親父と二人で居酒屋をぶち壊したって話、まさかこの店のこと?」
「おっ、察しがいいな〜。20年前だったよな親父さん。お陰で改装できていい店になったじゃないか。瞬は聞いてなかったのか」

 繁田は杉岡の静止も構わず話し始めた。
「もう話してもいいだろう。瞬も少しは覚えているだろう。杉岡がレースで接触事故を起こして相手が亡くなった事があったよな。原因は相手にあったが、マスコミも業界もこいつを責めたんだよ。それだけならまだ良かったが、瞬君、君も親父を責めただろう。幼稚園で相当いじめられたようじゃないか」

そこ迄話すと杉岡が繁田の胸ぐらを掴んできつい顔で云った。
「いいかげんにしろ、今日は美味い酒を飲みに来たんだろう。昔話はやめろ」
「いや分かってるさ、でもな、瞬はもう大人だし、知っておいてもいいのさ」
杉岡はあきらめて手を離し、コップ酒を一気に飲み干した。

「いいか瞬君、それで君がこいつの足を蹴飛ばして「馬鹿」と云ったそうだ。その晩、男泣きして俺に電話して来たのさ。その後もそのショックからか蹴られた足でバイクに乗ると足が震えるようになったようだ。それで俺は気晴らしにこいつを車に乗せて松本に来たのさ。そしてこの店で飲んだんだ。昔この店は小汚くてね、つぶれかかっていたよな、親父さん。杉岡は相当飲んだ勢いで、ビール瓶を床に叩きつけたんだ。そしておい、金払うから暴れさせてくれってんで、この店をぶち壊し始めたのさ。途中から俺も親父さんも加わって、警察が来る程派手にやったよ。だがそれですっきりレースから見を引く決心がついたようだ」

 瞬は忘れていた小さい頃のその日を鮮明に思い出した。5才の時だった、幼稚園で他の子供達にからかわれた言葉があった。
「お前のお父さんは、バイクを辞めるんだってな、僕のお父さんが云ってたよ。弱虫だって」
瞬は悔しくて悲しくてその子を殴った。それを見た保母にきつく叱られ泣いて帰った。瞬は辞めずに戦って欲しかったのだ。
 その晩酒を飲んで帰った父親を「馬鹿」と叫んで蹴ったのだ。その後しばらくして杉岡はレース会を去り、家族で松本に戻りバイクショップを始めた。

 瞬はその誤解を悔やむのは辞めようと思った。そして杉岡に顔を向けて云った。
「残念だな、その時もし僕もいたら一緒に暴れて付き合ったのに。気持ちよかっただろうね」
杉岡は瞬の言葉に一瞬耳を疑った。そしてグスグスと涙を流しながら、声を出して笑い始めた。繁田も手を叩いて笑った。

「瞬ちゃん、いやなこと云うね、他にお客がいなかったらこの人又やりかねないよ」

「瞬君、ついでだ、もうひとつ笑える話がある。杉岡がまだトップレーサーの頃に親父とお袋のセックスシーンを見たそうだな。覚えていないか。あの頃じゃまだ分からんか」
繁田の話を杉岡がまた静止した。
「おい、もういいかげんにしろ」
「いや、いや、あの時は困ったってお前云ってたじゃないか」

 瞬はもうひとつ心の片隅に忘れようとゴミ箱にいれたままの記憶が蘇った。
父が有名になり、あまり家に帰らなくなったある日、幼稚園から帰ると両親の寝室で母の声がした。ドア越しに見ると母親が男に抱かれて声を発していた。父親が遊んでくれない寂しさをいつも癒してくれた母の愛情を他人に取られたようで、悲しくて又外に飛び出した辛い思いでを。
 瞬はその時から子供心に女心の儚さを感じ、大人になっても信じ切れない胸のつかえとなっていた。

「お袋さんは直ぐに気が付いたそうだが、途中で止められなかったようだ。そりゃ無理もないは。この親父も恥ずかしくって、終わったら又すぐでかけたそうだ。妹の菜月ちゃんは多分その時の子だな」

杉岡は苦笑いしながら又コップ酒をあおった。
「その通りだよ、あの頃は他にも女はいたけどな、やっぱり母ちゃんが一番よかったさ。その精魂込めて作ったのが菜月だよ。悪いか」

瞬は他愛もない二人の話に、自分が今迄大きな勘違いをしていたことを知った。
 瞬はそんな素の父親を見るのは初めてで、酔って馬鹿な話をする二人が愛おしく感じた。

 翌日全員で安曇村へ向かった。
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安房峠と上高地に近く自然に囲まれた丘の上に長田の墓標が立てられた。皆の祈りが終わるとアンドレスがギターを出した。長田が日本から持って行ったもので、瞬がグラナダで弾いたものだ。

 昨夜、アンドレスはギターを抱えて一人で散歩に出た。それは父の故郷を訪れた気持ちを歌にする為だっだ。

 アンダルシア独特の音階がAメジャーのスケールで静かに刻まれ、あたりの空気を沈めるように流れ渡った。皆は身じろぎもせず息を止めてその旋律に心を集中した。しばらくしてアンドレスのカンテが始まった。深い悲しみを込めたティエントだ。アンドレスの語りかけるような声は周りの木立や草花に染み入るように流れ、やがてギターが激しい和音をかき鳴らし、アンドレスの感情溢れるかん高い声が遠くの山々まで響き渡った。

 そのカンテと演奏に皆は言葉は分からずとも強く胸打たれ涙した。スペイン語の分かる玲子はその歌詞に肩を震わせ声を上げて泣いた。

「あなたは私を抱くこともなくこの世を去り、心彷徨い身は流転し長い流浪の旅を続けた。母はあなたを失い、代わりに私が生まれた。何と悲しい運命だ。しかし今、シエラネバダはあなたの願いを叶えた。松本はあなたの故郷。アルプスはあなたの心。抱かれて眠りなさい。今にして私の心は今日の空のように晴れた。アディオスおとうさん」

 アンドレスとの別れに、杉岡は一冊のアルバムと封筒を差し出した。アルバムには長田の写真、松本の風景、昨日写した皆の集合写真。そして封筒には現金が10万円入れてあった。
「このお金は、昔私が長田君から借りていたものだ。返すことが出来ずに困っていた。お母さんに渡して欲しい。又いつでも遊びに来なさい」

 アンドレスは一瞬ためらいながらも素直に礼を云って受け取り、杉岡と固く抱き合い別れを告げた。
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つづく(次回は4/30頃の予定です)
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# by june_head | 2009-04-27 01:10 | 第三十六話  

「愛と光と巡礼の夏」第三十五話

「愛と光と巡礼の夏」第三十五話
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 杉岡は瞬のスペインからの電話で聞いたオサダと云う男は自分の旧友であると確信していた。しかし、まさかそのオサダに息子がいる等とは信じられぬ展開だった。
 瞬はトレドとグラナダでの出来事をひとつひとつ父親に話し始めた。それは瞬にとっても不可解な出来事で、父親の表情を気にしながらその謎めいた内容を伝えた。

 杉岡はオサダのライターで火を付けた煙草を頻繁に口に運び、3本目を吸い終えた時瞬の話は終わった。聞き終えると大きなため息を付きながら店先に立ち、彼方に見えるアルプスの山々をじっと眺めた。
「そうかグラナダでもこんな山が見えるのか。あいつも辛かっただろう」

「お父さん、長田さんとはどう云う関係だったの」
父を追うように外に出た瞬は背中越しに云った。杉岡は瞬の言葉に少し間をおき、又煙草に火をつけてから話し始めた。

「奴とは中学時代からの親友だった。家は代々の酒蔵でな、俺より背が高くて松本では目立つ程のいい男だったよ。芯が強くて優しくていつも女に追われていた。しかし俺達が高三の時、奴の親父が酒蔵に火を付けて自殺した。相当の借金を抱えていたようだ。ひとり息子の奴は世間から孤立して人が変わったよ。学校から帰ると家に閉じこもってギターばかり弾いていた。卒業式の前だった、俺と奴とで同級の女を張り合った。奴に取られたよ。卒業後、俺は近所のバイク屋で仕事を始めたが、奴は1年後に彼女を連れて東京へ出て行った。しばらくして俺はプロのライダーとしてレースに出るようになり十数年が過ぎた。俺の親父が交通事故で亡くなり葬式で松本に帰っていた時だ。奴がいきなり俺の前に現れた。彼女が自殺したと云って俺の前で遺骨を抱いて泣いた。俺は奴を力一杯殴った。責任は全て彼にあったからだ。フラメンコのギタリストをしていたが、収入の少ない奴を彼女がずっと支えていた。しかし、奴は他の女にも手を出したのだ。奴は彼女の実家からも、自分の母親からも勘当され、もうそれを最後に松本には戻れない身となった。翌日奴が東京へ帰る時、駅で俺は彼にこのラーターを渡した。だいぶ経ってから、グラナダにいるとだけ絵葉書が届いた。それっきりだった」

 話終えた後、二人に長い沈黙が流れた。瞬は杉岡の手からマールボロの箱を取り1本口にくわえた。すると横からライターが差し出され火が付けられた。繁田だった。

「悪いな、初めから聞かせてもらった。実はな、俺グラナダに寄ってそのジプシー女のカルメラに会って来たよ」
二人は唖然として繁田の顔を見た。繁田は杉岡から瞬との電話の話を聞き、パリで瞬からグラナダのジプシーの居場所を聞いていたのだ。

「タブラオへ行って、フラメンコを見て彼女と話をした。通訳無しで苦労したよ。今日はその報告をしようと思って一緒に来たのさ。長田氏は、スペインに長期不法滞在だったからジプシーの町「アルバイシン」に隠れるように住んでいたが、しばらくしてカルメラの家に転がり込んだ。ギターの腕を上げ、初めてタブラオの舞台にカルメラと一緒に出た晩に事故で死んだと云う。しかしどうも他のギタリストと喧嘩して刺されたようだ。それはジプシー達の証言で事故として処理された。領事館が間に入ったが引き取りを実家が拒否し、うやむやのまま、カルメラの手でサクラモンテの丘に葬られた。しかしその後墓が荒らされ骨もないらしい。彼の死後9ヶ月目に息子が生まれ、その父親はオサダだとカルメラが云っている。それはどうも事実らしい。そして息子には父親の実家が松本だと云う事を伝えていない。受け入れてもらえるはずはないからと。杉岡、あんたの話をしたら、息子にはこれ以上の事は伝えたくないと。自分達の世界とは違うものへの思いをこれ以上募らせては息子が苦しむだけだと。杉岡、どうする」

 繁田は腕を組み目を閉じて聞き、瞬は繁田の目をじっと見ながら聞いた。
聞き終えた杉岡はゆっくり目を開け、繁田の目を睨みつけるように云った。
「そうだったのか、カルメラはそう云ったか。だが長田の母親はもう10年程前に亡くなった。姉さんがいたが、今どこにいるか誰も知らないだろう。せっかく日本へ来る息子が何も得ずに空しく帰すのは忍びがたい。もし来たらここへ連れて来い。以上だ、君達は先に上へ上がってくれ」

 杉岡は二人を追いやると、奥のデスクから古い小さなアルバムを出した。写真嫌いだった杉岡の高校時代のものが何枚か残っている。そこに長田と二人で写る学生服姿もある。それは今も拭い去る事のできない杉岡の胸のつかえでもあった。長田はあの世から息子を案じているはずだ。暖かく迎えてあげたい。

 杉岡が2階へ上がると、瞬と綾奈の将来に付いて盛り上がっていた。瞬が今の工房で修行を終えたら、綾奈の母祥子も連れて松本に移り住み、そこにステンドグラス工房と、綾奈と祥子の為のアトリエも開くと云うのだ。
「お〜いい展開だな〜、ついでにその隣に俺の別荘も建てようかな」
繁田のその言葉に瞬が異議を唱えた。
「いやヘッドの別荘は八ヶ岳か白馬がいいですよ」
すると真知も笑いながら続けた
「そうね、少し距離を置いた方がお互いに落ち着けるわね」
皆の笑いに落ち込む繁田に杉岡がとどめを刺した。
「ほら、お前はいちいちうるさいからだよ。俺も賛成だ」

 「いいな〜皆、そしたら私も松本に残るかも。ねえお父さん、もし私がお婿さんもらったらこの店私にくれる?」
真知に似て闊達な瞬の妹菜月の突然の言葉に、一瞬時が停まった。皆顔を見合わせ、そして杉岡に視線が集中した。杉岡は返事に困り、瞬に視線を送った。瞬は笑顔でうなずいた。そして真知に視線を移すと、何度もうなずく。
「そりゃ〜相手によりけりだけど、しかしまだ先の話だろ」
そう口ごもる武史に瞬が大きな声で云った。
「菜月、お前エライ、いい選択だ。但し、その為にはこれからも松本を離れないで親孝行しろよ」
すると菜月は平然とした顔で答えた。
「今のは、もしかしての話でしょ。やだな〜皆そんな真剣な顔してやばいよ」

 外は知らぬ間に陽が落ち、二階のベランダに出て空を見上げると満天の星が瞬いていた。

 翌朝、瞬と綾奈はオフロードバイクで乗鞍高原へのツーリングへ出かけた。久々綾奈とのタンデム走行はスペインからパリまでの旅を思い出させた。
 158号線で松本鉄道に沿って西へ走ると40分程で奈川渡(ながわど)ダムに着いた。高さ155m、幅355mのアーチ式コンクリートダムで、ダム湖の梓湖を見下ろすと恐ろしい程の落差さが実感できる。綾奈は長野の自然を生身の身体で走り、見た事もない巨大なダムに感動した。
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 二人は昨日迄の緊張感から解き放たれ、青空と見渡す限りの雄大な自然の中で至福の時を過ごした。
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 ダムから梓湖に沿って野麦街道を南下し、奈川村から上高地乗鞍スーパー林道で乗鞍に入った。林道は舗装されているがくねくねと曲がって道幅は狭い。瞬は絶え間なく表れるカーブを頻繁にギアチェンジしながら小気味良くターンを繰り返した。その道は昔数え切れない程走り、知り尽くしていたコースだ。しかしそれが災いした。右回りのカーブで対向車がセンターラインを大きくオーバーして二人のバイクに向かって来た。カーブを切り始めた直後の二輪のバイクはもう逃げようがない。しかし瞬は一瞬のハンドルと体重移動で接触は避けた。しかしそれ以上の制御は効かず、バイクは前方のガードレールに接触し転倒した。

 車はそのまま走り去り、瞬は倒れたバイクに右足を挟まれ、綾奈は対向車線に投げ出された。狭いカーブの中にいると他の車に跳ねられる危険がある。瞬の足はオフロード用ブーツで守られ、すぐに起き上がることが出来た。綾奈を抱き起こしガードレールの内側へ避難させたが、幸い怪我はなかった。瞬は倒れたまま廻り続けるエンジンを切り、カーブの先の路肩に止めた。

 オフロードバイクで未舗装の林道を攻めて転倒することはよくあることだ。しかし、こんなカーブでの事故はあってはならない意識の欠けた運転である。瞬は猛反省し綾奈に詫びた。しかし綾奈はショックで口がきけない程であった。
 タンデム走行では、バイクも身体も大きく倒して切り抜けるカーブは、後ろに乗る人間にとってはいささか恐怖である。綾奈は目の前に迫る対向車を目にした時それが絶頂に達し、死を感じる程の思いだった。

 「私、もう帰りたい」
消え入るような声で云った綾奈の言葉は、瞬には「パリに帰りたい」と聞こえる程自分が情けなかった。
「分かった。ゴメン」

 二人は無言で元来た道を引き返した。しかし10分も走らぬ内に、綾奈が後ろから瞬を強く抱きしめながら云った。
「瞬ゴメンネ、もう大丈夫だから、やっぱり乗鞍高原へ行きたい。連れてって」
瞬は綾奈の自分への気使いだと感じた。
「OK、じゃあUターンするぞ」

 瞬は速度に気を使いながらゆっくり走り、綾奈の気持ちに涙が溢れた。

乗鞍高原に着くと景色の良い茶店の前にバイクを止め、お茶を飲んだ。
「私ね、瞬のご両親や妹さん、大好き。人と接してこんなに心が癒されたことなかったよ。瞬はあんな優しい家族とこんな自然の中で育ったのね。そしてこんな素敵な彼女を掴んで、幸せすぎるぞ」
「おいおい、何とでも云えよ。今日は何云われても逆らえんからな」

 二人は昼食の後、白骨温泉の露天風呂に入り、沢渡から再び158号線で松本へ戻った。
 家に戻ると繁田は付近の農家から買い集めた野菜をトランクに詰め帰り支度をしていた。
「瞬君帰るぞ、俺は今晩化粧品の配達があるんだってさ。さっき店から電話で、配達のおじちゃん早く帰れだと」

 
川崎に戻った綾奈は、アパートの荷物を片付け、仕事の整理、そして又いつ会えるか分からぬ瞬との別れを惜しんだ。1週間は瞬く間に過ぎ、綾奈はパリに帰った。
 瞬は工房の仕事に没頭し、綾奈はパリのカフェでアルバイトを始め、祥子は篤志の作品の整理や出版の打ち合わせに動き出した。

 まだ残暑の残る9月中旬であった。携帯に覚えのない番号が着信した。もしやと出ると、やはりジプシー女性の息子アンドレスだ。二人はたどたどしい英語で話した。彼は二日前に来日し上野のゲストハウスに宿泊している。
わずか5日間の滞在の中で父親の母国日本を見て帰ると云う。
 瞬は翌日渋谷駅のハチ公の前で会う約束をした。

 翌日ハチ公の前に着くとアンドレスが10人程の人に囲まれてギターを弾いていた。近付くと曲は「アルハンブラの想い出」である。ギターを見ると瞬がカルメラの家で弾いたあのギターだ。弾き終えると拍手と共に若い女性がアンドレスに話しかけた。流暢なスペイン語である。
 瞬はしばらく声を掛けずにそれを見ていた。アンドレスが瞬に気が付き、歩み寄った。トレドの街の暗がりでわずか数分会っただけであったが、アンドレスははっきり覚えていたようだ。声を掛けて来た女性は外語大でスペイン語を勉強する学生で村田玲子と名乗った。瞬が事情を話すと、玲子は通訳させて欲しいと云った。

 3人は近くのカフェに入った。アンドレスは父長田の故郷が松本であると知っていた。母親に内緒で領事館に行き調べていたのだ。そして明日一人で松本へ向かう予定であると。瞬は女性の通訳を介して知る限りの情報を正直に伝えた。そしてアンドレスの話も聞き出した。

 アンドレスは私生児として生まれて18才になるまで、父親の素性を知らされる事はなかった。しかし、フラメンコのギタリストとして初めて舞台に立った夜、母親から密かに父親が日本人のオサダであったことを知らされた。それは舞台で演奏するアンドレスの姿が余りにもオサダに生き写しであり、母のカルメラは伝えずにはいられなくなったのだ。

 アンドレスはその夜から父オサダへの思慕の念が離れず、日本への思いも次第に高まった。しばらくは毎夜のごとく母親から父の話を聞き、本を探し、日本語を勉強し、グラナダに於けるオサダの痕跡を探した。
 長田の遺骨は不明だが今自分が履いている靴は父親の遺品であると云う。それはある日、カルメラは部屋に隠し持っていたオサダのギターや遺品を息子に差し出したのだ。しかし靴や楽譜や衣類等で、出身地等に関わるものはなかった。アンドレスはサイズがぴったりのその靴を履き来日したのだ。
そしてその靴で松本に入り、アルプスの見える場所に埋めて墓標を建てたいと云う。

玲子はその話を伝えながらボロボロと涙を流した。
 明日は祭日で瞬も休みである。瞬は自分が案内し、オサダの旧友である父にも会わせると云った。玲子も通訳で連れて行って欲しいと哀願した。
スペインでのジプシーとの不可解な出会いが、今感動的なエピローグに向かって行くように思った。

3人はその後、場を居酒屋に移し、終電近く迄話をした。アンドレスは、明日玲子と渋谷で待ち合わせて梶が谷まで来る。そこから繁田も誘い車で松本へ向かう。

                                         つづく
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# by june_head | 2009-04-15 20:22 | 第三十五話  

「愛と光と巡礼の夏」第三十四話

「愛と光と巡礼の夏」第三十四話

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   藤倉が死去してわずか4日目の朝である。教会の鐘の音は眩しい青空に広がり、町の隅々迄響き渡った。
庭の草花は静止して空を見上げ、部屋の3人は藤倉の霊前に跪き、長い祈りを捧げている。
   綾奈にとって父の突然の死は、まだ夢の中の出来事のようで、脳裏に浮かぶのは小さい頃の自分と父親だった。せめて自分がパリに戻ったあの日に時間を戻して欲しい。できることなら両親と一晩中、あの楽しかった家族旅行や日本の話をして瞬にも聴かせたい。叶わぬ思いと父への懺悔が綾奈の祈りの中で彷徨った。

   瞬は2週間のバイク旅行を今日で終え日本に帰る。日本を旅立つ時十分な準備期間もなく、心もとなかった旅の目的が今やっと見え始めた頃なのだが、そんな余裕はない。
 綾奈は車で瞬を空港迄送る為車庫から車を出し、そのダッシュボードに庭で摘んだ向日葵を束にして飾った。切ない別れにしたくなかったのだ。綾奈は瞬を待つ間、父の篤志が版画に彫ったてんとう虫の絵を、フロントガラスに口紅で描いた。その羽はわずかに開いて飛び立とうとしている。

「もっとここに居たいのですが、帰らねばなりません。個展の時には必ず又着ます。どうぞお元気でいて下さい」
瞬は重くなった荷物とヘルメットを手にして云った。
「瞬君、これは篤志が残したマリア様よ。篤志と最後に話をしたあなたが預かってくれると嬉しいわ」
祥子は厚手の布にくるんだ30センチ四方のステンドグラスを差し出した。
「分かりました。工房の窓に取り付けて、毎日藤倉さんを思い出します。これは私の光の道標ですから」
祥子は瞬を強く抱きしめ頬にキスした。

   綾奈の運転する車はパリ市内を経由して空港に向かう。市内に入りセーヌ川に差し掛かった時、瞬は携帯電話で母の真知へ電話した。祖母重子の容態が気になったのだ。電話から真知の落ち着いた声が返った。

「そちらも大変だったようね。お婆ちゃんは幸い身体の麻痺はなくて今日退院して、さっき田園調布の家に帰って来たの。まだ帰れる身体じゃないのに、家に帰るって騒いで大変だったのよ。ちょっと待って」
と云ってすぐ重子に代わった。
「あら瞬ちゃんなの、めずらしいわね、どうしたの?えっパリから?海外旅行だったら餞別あげたのに水臭いね。でも気を付けなさいよ」
「何云っているの餞別は・・・、お重さんもう退院だなんて無理しちゃだめじゃないか」
「退院って誰の事?私は今真知と買い物から帰ったばかりよ」
「だってお重さんはこの前倒れて病院」
そこまで話した時あわてて代わった真知が声を潜めて云った。
「瞬、おばあちゃんねは、入院の事をもう忘れてるの、入院の間に脳梗塞の影響で認知症が始まったのよ。気にしないで話しを合わせてあげて」
瞬は一瞬真知が云う意味が分からなかった。しかしすぐに理解して重子の話に合わせた。しばらく話すと又真知に代わり、瞬がパリの状況を報告して電話を切った。

   綾奈に祖母の状況を説明した瞬は、セーヌの河原を歩きたいと車を止めさせた。石畳の河原の道には多くの人々が行き交い、向こう岸に停泊する船上ハウスのデッキでは裸で身体を焼く女性の姿も見える。瞬は又こうして綾奈の肩を抱きながらセーヌを歩く日が来るのだろうか、そう思いながらその腕に力を入れた。

「私一週間位したら日本へ帰るし。でも又パリへ戻って、個展が終わったらお母さんを連れて帰るよ。来年の今頃か、もう少し後になるかもしれないけど必ず瞬の所に帰る。待っていてね」
瞬は日本にではなく自分の所に帰ると云ったその言葉が嬉しかった
「個展の時には俺も先生も又来るし、インターネットのスカイプ使えばテレビ電話で毎日話せる。俺は仕事を頑張るよ」
 瞬はもう絶対に綾奈を離したくない。その為にも自分はもっと強くならねばならないと心に誓った。

シャルルドゴール空港を飛び立った飛行機は、みるみる二人の距離を遠ざけて青空に吸い込まれて消えた。

<帰国>
   翌日成田に着いた瞬はまっすぐ田園調布に向かい祖母を見舞った。瞬の両親は既に松本に帰り、真知の兄嫁が祖母の面倒を見ていた。旅立ち前に見たふくよかな重子はわずかの間に痩せこけ、その表情や話し方は別人のように力なく、瞬はどう対応すれば良いか戸惑った。昨夜の重子は知らぬ間に外へ出て夜中の街を彷徨い、連れ戻そうとした長男を罵倒し、トイレも汚す等深刻な状況であると聞かされた。あの祖母がまさか、と思える程元気で気丈であった人を、病気は一瞬に変えてしまう。瞬は悲しくて祖母の顔を見るのが辛かった。
 
   田園調布を出ると瞬は途中東横線に乗り換えて菊名の工房へ向かった。車中で恩師鷹山への報告をどう話そうか、瞬は車窓の景色を眺めながら考えた。昨日迄旅をしていた風景と全く違い、生活の匂いの濃い街並を電車はモーターとレールの音を響かせながらフルスピードで走った。考える間もなく電車は見慣れた菊名の駅に入った。もう飾らず思うままに伝えればいい事だ。瞬はそう思いホームに降り立った。

   工房では鷹山がひとりでステンドグラスの下絵を描いていた。他のスタッフは横浜の開港記念館のステンドグラスの修復現場に出ている。

「おっ帰ったか。いろいろあって疲れたろう。ご苦労さん」
「はい、ありがとうございます。私も今迄の自分の甘さに気付かされました。少しは成長したつもりです。今は早く仕事がしたくてうずうずしています」
「そうか、それでいいんだよ。焦る事はない、しっかり前を向いて歩けばなんとでもなるんだ。俺は焦って無理をし過ぎたからな。云っておくが私の身体は心配いらんぞ。検査の結果は問題なかった。養生はせんといかんがな。その分君達に頑張ってもらうさ。今から開港記念館へ行って手伝ってあげてくれ」
そう云って微笑む鷹山に瞬は黙って深く頭を下げ、工房を後にした。
「良かった。さあ仕事するぞ、あの大聖堂を築いた工人達の思いを学んで来たんだ。やるっきゃないぜ」

   その晩から瞬はパリと毎日スカイプで連絡を取り合った。綾奈と祥子は喪に服し、毎日教会へ通い、藤倉の遺言の通りセーヌとモンマルトルの丘に散骨もした。

   1週間が瞬く間に過ぎ、綾奈が朝の成田に降り立った。出迎えた瞬の手には一輪の向日葵があった。
「嬉しい、それもしかして」
「おう、そうだよ、工房の庭からだよ。奥さんが花束にしてくれたけど、そんなの恥ずかしくてここまで持って来れないよ。でもパリを発つ日に綾奈が車のダッシュボードに向日葵を飾ってくれたね。俺はこいつを絶対幸せにするって思った」
「こいつって、向日葵を」
「馬鹿やろ〜、そうさ向日葵に決まってるだろ〜」

   二人はまず工房に顔を出し、鷹山夫妻に挨拶した。夫妻は綾奈を慰め、父親のパリでの個展の実現への応援を約束した。
「綾奈ちゃん、その時は私もパリに行くつもりよ」
 鷹山の妻恵子は綾奈の手を握ってそう云った。
「綾奈見てご覧、父上の作品は工房の壁と窓に飾らせてもらった」
 鷹山のアトリエの壁には2枚のマニエルノアールが、そして2階工房の窓にマリア像のステンドグラスがはめ込まれている。綾奈は首に掛けたマリアのメダイの首飾りに手をやり感謝した。

   工房を後にした二人は自分達の住む梶が谷に向かった。車中瞬は綾奈に、グラナダで会った高橋夫妻にデジカメを返したことを伝えた。
「よかったわ、お元気だった?」
「もちろん喜んでくれたが、綾奈のお父さんの話をしたらとても悲しそうに涙を流してくれたよ。それだけじゃない、驚きだよ。高橋さんは広告代理店の博電堂のメデイア局長をされていたらしい。美術に詳しくてね、藤倉さんの版画の個展の話をしたら、マニエルノアールの希少価値と個展に至るストーリーが興味深いから、その時期が来たらメディア各社に取材してもらえるように話してくれるって」
「凄い!日本でも紹介されたら熊本の父の実家の人達にも見てもらえるかも知れない。もちろんお母さんも感激するわ」
闇の中からまたひとつ光が見えて来た。

   綾奈はアルバイトしている梶が谷の化粧品店ジュネに顔を出した。ジュネの店名は鷹山の命名だ。彼がパリ留学時代に、友人繁田が開業の時に相談され、当時パリにあった女子校の名前を選んで命名している。
 綾奈は繁田の妻美佐子にパリでの出来事を報告し、アルバイトは辞めて近くパリに帰る希望を伝えた。
「もちろんよ、お母さんを助けて早く個展が実現出来るといいわね。ヘッドは何か迷惑かけなかった?こんな時に呑気にスペインへツーリングなんて、本当に明日帰るのかしら」
店のスタッフ達も交互に話に加わり、店先は賑わった。

その夜、二人は綾奈の部屋で一緒に夕食を作り、語り合い、朝迄濃密な時間を過ごした。

<瞬の実家松本へ>
  翌日繁田がスペインから戻ると、瞬は綾奈と繁田を連れて松本へ向かった。繁田はパリからバイクでマドリッドに向かう途中グラナダを経由していた。ジプシー女性のフラメンコダンサーのカルメラの話を瞬から聞いていたのだ。

   午後1時に梶が谷を出発し、調布から中央高速で休まず松本へ走った。
甲府盆地を抜けると右手に八ヶ岳連峰が連なり、その裏側の蓼科や白樺湖、霧ヶ峰高原は瞬や繁田はツーリングで何度も走っている。諏訪湖を抜けるとやがて左手に白い雪が溶け黒い山肌のアルプスの稜線が青空の下に連なる。松本までわずか3時間のドライブだった。

   瞬の実家であるバイクショップでは、帰りを待ちわびる父杉岡が店先で煙草をくゆらせながらそわそわと動き回っていた。

「瞬、見えるか、店先に立ってるのは親父だろう、車に気が付いたら店の中へ引っ込むぞ。照れ屋だからな」
繁田はそう云うと声を出して笑った。瞬と綾奈は顔を見合わせ背筋を伸ばした。案の定杉岡は車に気が付くと中に入りバイクの修理を始めた。

「オーイ、久しぶり、瞬達が帰ったぞ、出迎えてやりなよ」
先に店に入った繁田の言葉に杉岡は右手を上げたが、又下を向いて作業を続けた。奥の事務所から母の真知が飛び出して来た。
「綾奈ちゃんも来たんでしょ。ほらあなたお迎えしなさいよ」
真知にせかされて杉岡が立ち上がった時、二人が店に入った。 

「ただいま、今日のアルプスは最高だよ。やっぱり山はいいよ。あっ、あの綾奈も一緒にきたから」
瞬はそう云って後で緊張する綾奈を紹介した。
綾奈が丁寧に挨拶をし、杉岡の目を見て微笑んだ。

「おう、繁田から聞いてましたよ。瞬がお世話になったようでありがとう。ゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます。松本は美しい山に囲まれてすばらしいです。伺えてとてもうれしいです」
「綾奈さん、皆で楽しみに待っていたのよ。可愛いはね、瞬の彼女とは思えないわ」
 真知の言葉に綾奈はホッとして満面の笑顔を見せた。その笑顔に杉岡も思わず微笑み、
「さあ、上に上がんなさい、俺も後で上がるから」

   真知の後に続き、繁田とー綾奈が階段を昇った。瞬はひとり残り父親にあらためて帰国の挨拶をした。
「お父さん、無事に帰りました。お陰でいい勉強になったよ。ありがとう」
瞬が東京へ出て依頼、父親に対して正面から素直に言葉を発したのはこれが初めてである。
「何だそんなあらたまって、そりゃ良かった。いい娘じゃないか、真知は気に入ったみたいだな。大事にしてやれよ」
杉岡は瞬の言葉に照れくさそうにそう答えた、
「うん、そうする」
瞬はそう云うのがやっとだった。それ迄の父親とのわだかまりが一瞬にして解けていくのを感じ胸がつまったのだ。

    2階の居間では瞬の妹が歓迎の支度をして待っていた。皆が揃うと冷たいビールがつがれ、繁田の音頭で乾杯した。
 賑やかなおしゃべりが続き、旅の模様は瞬に代わって大半を綾奈が話した。
そのしっかりした話し方と、両親を思いやる心に皆感動しながら聞いた。

   1時間もすると酒がさらに盛り上げた。
「いや〜久しぶりだよこんな上手いビールを松本で飲むのは、ほら昔武史さんと一緒に居酒屋をぶち壊した事があったね、あの後のビールの味だよ。あれは壮快だった」
「20年位前かな、そんな事があった。お陰で俺は高い金払わされたよ」
繁田と杉岡に話に真知は割って入った。
「繁田さん、何が壮快よ。あの後私も警察に話を聞かれたり、お金を払わされたり、どれだけ苦労したと思う?」

   その日の杉岡は気分も良く雄弁であった。ひとり煙草に火をつけた。
「あなたダメよ、下で吸って」
杉岡はその言葉に逆らえず、瞬を誘った。
「住みずらい家だな、おい瞬、付き合え」
うなずいて階段を下りる瞬の姿を綾奈はさりげなく見送った。

 杉岡がマールボロの蓋を開け瞬にも1本薦めた。旅の途中禁煙を誓った瞬だが素直にもらいライターで火を付けた。

「このライターは長田と云う人が持っていたもので、グラナダでジプシーの女性に貰ったんだ」
杉岡の顔色が変わった。
「ちょっと見せろ」
杉岡は手にとった瞬間息を詰まらせた。
「これだ、信じられん、俺の手に戻るなんて。やっぱりあいつだったのか」
その父親の顔がみるみる赤くなるのを瞬は戸惑いながら見て云った。
「やっぱり知っている人だったの?この松本の人?その息子が日本に来る予定なんだ」
「長田の息子?」
杉岡は驚きで瞬の顔を凝視した。

つづく(次回35話は、4/10頃のアップ予定です)
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# by june_head | 2009-04-05 19:09 | 第三十四話  

「愛と光と巡礼の夏」第三十三話

「愛と光と巡礼の夏」第三十三話

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 しばらく部屋に入るのを遠慮していた繁田が祥子に招き入れられた。
藤倉とは初対面である。繁田は棺に眠る無言の藤倉に手を合わせ深く頭を足れた。少なからず藤倉家と関わりを持つ繁田であるが、今となってはただ冥福を祈ることしか思いは及ばない。

「繁田、そこに版画が並んでいるだろう。藤倉さんの遺作だ。覚悟を決めた壮絶な思いが彫り込まれている。俺はまだ手に取ってみるのが辛いんだ」
 
 鷹山の言葉に繁田は床に並ぶ版画を2枚広い上げた。「闇と光」、その2枚の版画をじっと見ていた繁田が深くため息をついた。
「凄いなこのこの絵は、何だろう、自分への鎮魂の気持ちだろうか」
鷹山は歩み寄り繁田からその版画を受け取り、極細の線画を長い時間かけて見た。
「いや、これは残る者達への愛と巡礼の思いだな。そう云う人なんだ」
鷹山はそう云って棺の周りに並べられた版画を1枚1枚丁寧に手に取って重ねた。
「私もそれを感じました。鷹山さんはご存知ですけど、彼は長男でありながら家の跡継ぎを拒否して黙ってパリに来ましたの。それが後で知れて親や兄弟から勘当され、両親の死も最近まで知らされていませんでした。その自戒の思いも強くて苦しんでいたはずです。言い分はあっても口下手な人でしたから。この版画はお二人も1枚ずつお持ち帰り下さい。篤志からのメッセージですから」
祥子はそう云って棺の藤倉に口づけした。
「篤志、あなたの思いを皆で大切にしますよ」

 3人は居間に戻り、明日の葬儀や今後の事について話をした。
藤倉が生前書き残した親しい人々だけを招いての葬儀は、祥子の意思により教会で行い、その後火葬する。
「祥子さん、私は明日帰らねばなら。2日後に受註したステンドグラスの下絵を数点出す約束なんだ。藤倉さんのお骨を少し頂いて帰りたいけどいいですか」
「もちろん、側に置いてあげて下さい。篤志も喜ぶわ」

 カトリック教徒の多いフランスでは宗教的に土葬が一般的であった。しかし1963年に教会が法令で火葬を認めてからそれが増えている。特にパリでは墓地が限られ、又エコロジーで経済的でもある為、近年は4割り以上が火葬となっている。
 藤倉本人はカトリック信者ではない。しかしいつからか藤倉の心にマリア信仰の気持ちが芽生え始めていた。それを知る祥子は教会での葬儀を神父へ願い出ていたのだ。

 火葬の後は墓地を持たず、藤倉の遺言により一部をフランスで散骨し、残りは祥子の元に置く事になっている。そしていつか日本に持ち帰り墓地に納める。
 鷹山は葬儀が済んだら祥子の早期の帰国を促した。パリにひとり残すのは余りに寂しく、祥子の身も安じるだからだ。しかし祥子は当分パリに留まる意思を告げた。それは祥子にある考えがあったからだ。

「篤志がパリで生活を初めて今年で丸30年、私も29年になります。パリは私達の人生そのものです。辛い事も多かった。でもパリは日本人の私達を今迄優しく見守ってくれました。パリを離れる前に篤志の為に何かを残したいのです。実は画商のドゥプースさんの紹介である美術雑誌社が本の出版を考えてくれることになりました。篤志が残したマニエルノアールに私がエッセイを加えて出すのです。その出版に合わせてドゥプースさんが個展を開いてくれると昨日電話がありました。それが全て終わったら日本に帰ります」

 翌朝早く画商のドゥプースとその息子ジョアンが藤倉の家を訪れ弔問した。ドゥプースは祥子と鷹山とフランス語でしばらく話しをし、一緒に藤倉の部屋へ入った。
 綾奈とジョアンはボーヌで別れた余韻も消えぬ内に再び顔を合わせた。ジョアンは綾奈とハグし耳元でしばらく囁き頬にキスした。その後瞬と無言で握手し3人の後に続いた。
 ドゥプースは藤倉の余命を知ってはいたが突然の知らせに友として涙し、藤倉から託された版画の後見人としてその約束を誓った。
「祥子さん、篤志さんが1年前に私の画廊から作品を引き上げる時こう云いました」

「今の私の作品は生活の為のものになっている。あなたはそれを見ぬ振りしてきた。こんな作品で世話になる訳にはいかない。全て返して欲しい。又あらためてお願いに来る」

「藤倉さんは自分に正直な作品を私に託したかったのでしょう。その頃から死を意識していたのではないだろうか」
 祥子はうなずいた。
「そうでしたか、知りませんでした。お返し頂いた版画は篤志が全て焼きました。そしてこの1年は原盤の修正と新しい作品への取り組みに夢中になり、ただ1度ノートルダム大聖堂へ行った以外は部屋を出る事はありませんでした。そしてこれが最後の遺作です」
祥子はそう云って「光と闇」の版画を手にとって見せた。
作品を手にしてしばらく見ていたドゥプースは、やがて手を震わせながら云った。
「これはマニエルノアールでしか表現できない作品だ。祥子さん、出来るだけ早く出版しよう」

 近くの教会から葬式を知らせる鐘が鳴り、参列者が集まって来た。その数は知らせを受けた人だけでなく、彼を知る多くの人々が参列した。藤倉は生活に苦しみながらもパリを愛し、望まれれば無償で公共の病院や施設へ絵や版画を提供していたのだ。

 聖堂に運び込まれた藤倉の舟形の棺には、黒い布が掛けられ、AFのイニシャルのついた盾が置かれている。
 神父の祈りと共に参列者も神に故人の罪の許しを請い、天国での冥福を神に願った。そして全員で聖歌が歌われ、神父の聖句がつづいた。
 最後の別れに皆ひとりずつ聖水を十字を切るように棺に落とし、悲しみの中に葬儀は終わった。

 葬式を終え、参列者に見送られ藤倉は家族と共に火葬場に運ばれた。棺には藤倉の最後の作品「闇と光」、そして参列者からの祈りのカードと共に、綾奈は自分のハンカチを一緒に納めた。そのハンカチには「パパ、私の心はどこにいても一緒だよ」と書かれている。

 藤倉は皆の祈りとともに荼毘に付された。
「瞬、綾奈、見えたか。藤倉さんは身を燃やしながら光を発した。光を求め続けた人が今は皆に光を与える聖人となったのだよ」
瞬は鷹山の言葉に大きくうなずき、綾奈の手を握った。
祥子が用意した骨壺は銅製で、祥子の手によって藤倉のイニシャルが彫られてある。皆で集骨し、その骨壺は綾奈がしっかり抱えて火葬場を後にした。

 帰り道、鷹山は瞬に云った。
「君達の帰国は明日だったね。繁田もマドリッドへ出発だろう。祥子さんが可哀想だ。しばらく綾奈を残してあげたいな」
「先生、綾奈はそのつもりです。一週間程帰国をずらして、そして日本の生活を整理して又パリに戻ると云っています。お母さんをひとりっきりにはできないと」
「そうか、それがいい。本の出版が済んだら出来るだけ早く一緒に日本へ連れ帰してもらおう。それが一番いい」

鷹山は後ろ髪引かれる思いをこらえながら、繁田の運転する車で空港へ向かった。
「繁田、俺はお前が羨ましいよ。苦悩と云う言葉とは無縁だろう」

「いきなり何をいいだすんだ、俺は自己中心の芸術家と違うからな、お前さん達のように思いを込めた作品を残せない。商売する毎日の喜怒哀楽と小さな積み重ねで何とか生きる喜びを感じるだけさ。商売は自己満足じゃ成り立たない。人と人の気持ちのインタラクティブさ。俺はお前のその論理的な話し方がいつも気になる。ステンドグラスと云う自然光を相手に仕事してるんだろ、頭だけで物事考えないでもっと素直に言葉を発した方がいいと思うよ。俺にじゃないぜ、俺にはいつも云いたい放題だからな、上さんやスタッフや祥子さんや日本の芸術業界に対してさ。俺は脳みそじゃ負けるけど、心を開いたおしゃべりなら鷹山より上手いさ。でもそれで失敗したり人を傷つけてしまうこともあると思いけどさ。そうだとすると俺も自己中なのかな。まあ性格は違うが、小学校から今迄こうして付き合っているんだから似た者同士か。但し自覚している分俺は少しマシだろう。おい、聞いてんのかよ」

空港まで話の止まらない繁田の声を聞きながら、鷹山はいつのまにか深い眠りに落ちていた。

綾奈の家では3人が部屋の片付けをしながら話しをしていた。
「綾奈、せっかく日本の生活に慣れてイラストの仕事もできるようになったのだし、それに瞬君との事だって」
「お母さん、篤志はお母さんだけのものじゃないでしょ。私お父さんに頼まれたし、あなたをひとりっきりにはできないわ」
「お母さん、綾奈の気持ちは決まっているようです。本の出版には綾奈のサポートも必要ですから。個展には先生と必ず来ます。それが済んだら綾奈と一緒に日本へ帰って下さい。そして一緒に暮らしましょう」
「瞬君ありがとう、分かったわ、綾奈と又一緒に暮らせるなんて思っていなかったし嬉しい」

翌朝、繁田は瞬と綾奈がマドリッドからパリまで走ったバイクを引き継ぎ、バイクをマドリッドへ返しに1週間のツーリングに旅立った。
それを見送るように日曜日の教会のミサを告げる鐘が鳴った。

つづく (次回の34話は3/31にアップします)
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# by june_head | 2009-03-22 21:47 | 第三十三話  

「愛と光と巡礼の夏」第三十二話

「愛と光と巡礼の夏」第三十二話

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 午前9時、大聖堂前の広場には眩しい夏の太陽が照りつけ、既に大勢の観光客が集まり賑わっていた。
「瞬いい顔してるね、これでこの旅の答えを持って日本へ帰れそう?」
「答えか、それはまだ何とも云えない。でも大聖堂を独り占めできたお陰で俺の身体が何かを掴んだ気がする。帰国したら工房に閉じこもりたいくらいの気分だ」
「朝早く来て良かったね。幸運な出会いもあったし」
綾奈はそう云うと目に涙を浮かべて瞬を見つめた。

「どうしたんだよ、その顔は。おれはもう大丈夫だよ」
瞬は優しく綾奈を抱きしめ額にキスした。すると綾奈の目から涙がポロポロと流れ落ちた。
「私ね、ここで瞬を待つ間ずっと考えていたの。これから私どうしたらいいのかって」
「どうしたらいいのかって、お葬式がすんだらお母さんを連れて日本に帰るんじゃないか」
「そうね、そうするのが一番よね。でも昨日の晩、お母さんは日本に帰らないって云うの。お父さんが心はパリに残すと手紙に書いてあったでしょう。その人を残してパリを離れる事は出来ないって。私も彼女ひとりパリに残すのが心配」

瞬はその言葉に困惑した。
「まさか、綾奈もパリに残るつもりじゃないよな」
綾奈は下を向いて即答しなかった。
「綾奈、何とかお母さんを説得して一緒に日本へ連れて帰ろうよ。その方が」
綾奈はその言葉を遮るように、
「瞬それは難しい、彼女はそう云う人なの。私も日本に帰って瞬と一緒にいたい。でもお父さんだけでなくお母さんまで寂しい思いをさせしまう事はもう私には出来ない。彼女が日本に帰る気持ちになるまで、私もパリに一緒にいて上げたいの」
 瞬は絶句した。どうしてそんな展開になってしまうのか、昨日迄の俺達は何だったのだ。しかし瞬には綾奈の気持ちが分かる気もした。瞬はこの旅でそれまで浮かれていた自分の気持ちを悟り、仕事に対するあらたな意欲を持ち始めたところだ。それは綾奈にとっても同じかもしれない。この旅で、父の死で、自分を、家族を見つめ直し、我がままを許してくれた両親をこれ以上寂しい思いをさせる事は出来ないと悟ったのだろう。瞬はそう理解しながらもやり切れない気持ちになった。

 瞬は綾奈の手を取って立ち上がり、再び聖堂に誘った。
「もう一度一緒に祈ろう。お父さんの冥福と皆の幸せを」
綾奈はうなずき、涙を手でぬぐいながら従った。

 瞬には母親を思う綾奈の気持ちをもうどうすることもできない。今はその運命に従うしかない。しかし二人の愛は変わらず、未来が閉ざされた訳ではない。瞬はそう思うことにして聖堂の身廊を二人で進んだ。

 聖堂内には高く昇った太陽の光が、ステンドグラスを透過して降り注ぎ、
祈りの人々を包み込んでいる。二人もその光で身を清める思いで祈った。

 瞬はステンドグラス製作の工人と云う立場を忘れ、祈りの人としてその光を受け、色ガラスの聖人達に救いを求めた。瞬がステンドグラスと、そしてその光のメッセージに心から対峙し祈ったのは初めてである。すると今迄見えなかった微妙な色や絵の細部が目に焼き付けられるようにしっかり見えて来た。身体はその光の波長を感じ、それが神のメッセージのように心に染み入った。

 やがて瞬の心は神に抱かれるように安らぎ、救われる思いを感じた。
「そうだ俺は無我の闇の中に入ったのだ。だから見えたのだ。藤倉さんはこれを云いたかったに違いない」

 二人が祈りを終え席を立ったその時、今朝聖堂に招き入れてくれた司教が近寄って来た。
「あなた達の祈りは神に届いたはずです。又いつでも神に会いにきなさい」
二人は手を会わせ感謝の意を表した。そして瞬が司教に見てもらいたいと恩師鷹山から頼まれた小さなステンドグラスをポケットから出した。すると綾奈が、そのガラスの意味と割れたいきさつを、そしてこの聖堂の近くに埋めて帰りたいとの希望を話した。

 司教は黙って三つに割れた一片をつまんだ。
「ではこれを預かりましょう。クリプト(地下聖堂)の黒い聖母マリア様の側で保管します。あとの二つがいつもあなた達を守るでしょう」
司教はそう告げると立ち去った。

二人は司教の言葉の重みに感動し立ち尽くした。
しばらくして瞬は、手に残った二片のガラスの一片を綾奈に手渡した。
「俺と綾奈とマリア様の絆だ。俺達の心は変わらないと云うことだよ」
「うん、絆だね。心強い。でも小父さまは何て云うかな」
「多分、俺はどうなるんだ、なんて云うかも。でも神のお告げだと云えばいいさ」
二人はそう云って笑った。

 大聖堂を出て街を歩くと、車やバスが連なるように行き交い、シャルトルもバカンスの観光地と化していた。

 二人が綾奈の家に戻ると藤倉の遺体が戻り棺に納められていた。
「綾奈、お父さんはやっぱり脳溢血だったわ。でも苦しまなくて良かった」
「そうよね、私と瞬に会えて嬉しくてワインを飲み過ぎて、お父さんあわて者だよ。まだ話す事が沢山あったのに」
綾奈はそう云いながら父の頬に手をあてた。
「やさしい顔をしてるね。僕ももっと話を聞きたかった。男としても、芸術家としてもすばらしい人だったんだね」
 二人の話しをうなずきながら聞いていた祥子は思い出したように瞬に問いかけた。
「杉岡さん、どうでした?シャルトルは」
「はい、藤倉さんのおっしゃりたかったこと、少し分かった気がします。聖堂の中を歩いている時その声がまた聞こえたんです。闇の中でじっと待ちなさい、光が必ず見えて来る。その光は君の身体を包んで導いてくれる。そう聞こえた気がします」
「良かったわ。あなたと会うことをとても楽しみにしていましたもの。篤志もきっと喜んでいるわ」
瞬は胸が詰まって返事ができなかった。

「杉岡さん、ちょっと手伝って下さる?」
祥子は瞬の手を借り、藤倉の最後の遺作「闇」と「光」のマニエルノアールを5枚づつプレスした。藤倉が自ら刷った1枚は祥子が保存し、残りは今夜のメンバーが1枚ずつ持つことにしようと祥子が云った。瞬は刷り上げた版画を乾かす為に棺の周りに並べた。

陽が沈み始めた頃、鷹山を乗せた車が到着し警笛が鳴った。
外に迎えに出た祥子の作り笑顔に、鷹山はその悲しみの深さを感じた。
「祥子さん申し訳ない。無念だ」
「鷹山さん、もうご自分を責めないで、篤志は全てを受け入れて天国へいったの。篤志は最後迄あなたの事を気にかけていたわ。工房がうまくいっているだろうかって」
 その言葉に鷹山はこらえきれず下を向いて肩を震わせた。

 鷹山は瞬と綾奈に無言で挨拶を交わし、祥子の案内で藤倉の部屋へ入った。そして棺の前に跪き手を合わせた。

「鷹山さん、私、篤志にすべてを話しました。この人は知っていたのです」
鷹山は驚きで目を見開いた。
「知っていた?」
鷹山はうつろな目で祥子を見上げて云った。祥子はゆっくりうなずいた。
鷹山は再び藤倉の顔に視線を移し、そして頭を深く下げて云った。
「先輩、許して下さい。私は恩を仇で返してしまいました。何のいい訳もできません。情けない後輩です。苦しくてあれからパリにくるのが恐かった。綾奈君を私の元へよこしたあなたの気持ちがどんなものだったか、電話で話すのも身が縮む思いでした。許して下さい」

「鷹山さん、篤志は許してくれました。そして」

 それはちょうど2週間程前の事だった。藤倉の身体が急に変調をきたし下血して倒れた。救急車で運ばれ点滴により回復したが、検査の結果末期の肝臓癌が見つかり、胃や腸にも転移が見られた。すでに余命2ヶ月の宣告が本人にも伝えられた。藤倉は一瞬顔を曇らせたがすぐに姿勢を正し、笑顔で云った。

「そうでしたか、やっぱり。覚悟は出来ています」
彼はその数ヶ月前から自覚症状を持ちながら祥子に伝えず、なすがままに過ごして来た。16年前より糖尿により徐々に視力を失い、油絵からマニエルノアールの版画に転向した。才能により版画に於いても優れた作品を残し評価されつつあったが、生活と作品に行き詰まり苦悩していた。視力も益々悪化し、その心を酒に依存し、部屋を出る事は少なくなった。己の寿命を悟った藤倉は覚悟を決め、芸術家としての最後の遺作に取りかかった。それが「闇と光」であった。藤倉は神に与えられたその試練を最後の機会と思った。

「それならそれでいい。俺は今のありのままの心を最後の作品にしよう」
そして限りある寿命を最後の創作に費やした。一心不乱に銅板に向かい、その思いは彼に大きな力をもたらし2枚の作品を完成させた。

 ひとつは何万もの細い線で円を彫り刻んだ漆黒の闇の世界。まるで全ての光を吸収してしまうブラックホールの暗黒の世界は、円線が限りなく中心に向かい彫り込まれた。1ミリ幅の中に6〜7本の線が彫られ、その無限の闇の深さを表現していった。

 もう1枚はその闇の奥で静かに輝く小さなマリア像である。

 篤志はその2枚を完成させた時、マニエルノアール作家としての生涯を完結させた。藤倉が倒れたのはその翌日だった。

 ちょうどその日、綾奈から旅の知らせが入り、帰りにパリへ寄る事が伝えられた。藤倉は自分の病を旅立つ綾奈に知らせる事を固く拒み、そして治療をも拒み、家で限りある余生を過ごすことを望んだ。

 藤倉は綾奈の帰りを待つ間、遺言とも思える作品を彫り始めた。それが幼い頃の綾奈の笑顔で、それは綾奈が家に帰るその朝完成していた。
その屈託のない綾奈の笑顔は、子を愛する父親の全身全霊の愛情が込められている。その制作は藤倉にとって至福の時間であった。

余命の宣告を受けたその晩、藤倉は病室で祥子に問うた。
「祥子、もう昔の話だが、ひとつだけ聞いておきたいことがある。今更何と馬鹿な事をと云うだろうが、このまま逝っては俺達の人生は切ないものになる。だからあえて聞いておきたい。綾奈が生まれる前の年。パリに来ていた鷹山のホテルに君はひとりで行ったね」
藤倉の表情は穏やかで問いただすような聞き方ではなかった。
しかし祥子は突然の問いに身体が震えだした。

「ええ、行きました。ご存知だったのね」
「画商のドゥプース氏から聞いたよ。彼が鷹山をホテルに訪ねたらフロントで君が来ていることを知らされ、部屋の前迄行ってそれを悟ったと。それを聞かされたのは、家族でバルセロナまで旅して帰った翌日だった。俺はドゥプース氏と油絵の取り引きの件でもめてね、口喧嘩の末に私に余計な注進をして帰ったと云う訳さ」
 祥子は覚悟を決め許しを請うように篤志の目を見た。
「ごめんなさい、その通りよ。あの時私は鷹山さんに抱かれました。あの頃篤志は絵が売れだして家に帰らない日が多かったでしょ。子供もいなくて寂しかった。それで日本が恋しくなり始めて、そんな時だった。でもそれはあの時の一度だけ。あの帰り道私は空しくて泣いたわ」
祥子はそう話すと絶え切れず顔を手で覆った。

「そうだったのか、分かった、それはもういい、俺も悪かった。どうあっても俺は君と綾奈を愛している。それだけを云っておきたかっただけさ。話してくれて良かった。祥子、もういいんだ。もう苦しまなくていいよ」
篤志はそう云うと大きく息を吸い目を閉じた。

 祥子は篤志の肩に手をやり強く握った。そして気持ちを抑えるようにゆっくり云った。
「篤志、誤解しないでね。あの日の私の身体は子供が作れる状態になかったわ。それは誓って云えます。あれから1週間後に鷹山さんが日本に帰った夜、貴方は久しぶりに私を愛してくれた。嬉しかった。私は貴方なしではいられないことを実感したの。綾奈はその時の子供よ。私達の子供なの」
 その言葉に篤志はシーツをかぶり、声を殺して泣いた。心の奥底に抱えて絶えていた長年の苦悩が堰を切って流れ出したのだ。

 しばらくして藤倉は気を取り直し話し始めた。
「そうか、そうだったのか。俺も阿呆だな」
藤倉はそう云って微笑んでみせた。
「俺はそれでもいいと自分に言い聞かせてきたよ。綾奈は俺の娘だ。誰にも渡したくない俺の天使なんだと。俺のとんだ早とちりか、俺こそ馬鹿者だ。祥子すまなかったな」


「篤志はそう云って私の手を求め握りしめてくれました。暖かい手でした。私達はその時また心をひとつにすることが出来たの。暗い長い道を歩んでしまったけど、二人で又昔の光を取り戻す事ができました」

 祥子の話をじっと目を閉じて聞いていた鷹山は、懺悔の心とやり切れなさに拳を握りしめた。

 鷹山は身の置き所がなく、窓際に立った。庭に目をやると、窓の向こうから背の高い向日葵が部屋を覗くようにかすかに揺れていた。

つづく(次回は3/20頃の予定です)
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# by june_head | 2009-03-13 19:50 | 第三十二話