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「愛と光と巡礼の夏」第三十六話

「愛と光と巡礼の夏」第三十六話
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 翌朝、梶が谷駅にアンドレスと玲子が降り立った。白いポロシャツに真新しいリュックを背負ったアンドレスは右手に黒いギターケースを下げ、これから始まる父の軌跡を探る旅に期待と緊張の思いだ。
 玲子はボーダー柄のシフォンのワンピース。膝上丈の裾をふわふわと揺らしながら階段を昇った。玲子は昨日偶然に出会った若いスペイン男性の心の旅に、通訳として付き添うことに心はときめいていた。

 瞬は改札口で二人を出迎え、駅前の繁田の店に案内した。化粧品店ジュネはちょうどシャッターが上がり、繁田がスタッフと共に開店の準備をしている。瞬は繁田に二人を紹介した。
「おう、来たか。ブエノス ディーアス セニュール」
大学でスペイン語を少し学び、スペインへ何度も旅した繁田はアンドレの訪問を聞いた昨夜、彼に伝える言葉をスペイン語で話そうと準備していた。流暢に話す繁田のスペイン語にアンドレは驚き、それは安堵と期待を感じさせた。
「ヘッド凄いですね、しゃべれるんだ」
瞬の言葉に玲子も続けた。
「ほんと完璧ですよ。感動しました」
「いや〜予習してたからね。ここから先は玲子さんの通訳が頼りだ」
繁田はそう云いながらもゴキゲンで、すぐに車を出しに駐車場に向かった。

 4人は車中賑やかに話しながら中央高速を休まず走った。相変わらず奔放にしゃべる繁田だが、時折助手席のアンドレスを気使い時折玲子に通訳させた。
アンドレスは黙ってうなずきながら、見える景色を心に刻み付けながら何度もカメラのシャッターを切った。
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 松本インターが近付くと、遠くに穂高連峰や北アルプスの山々が見え、緑の野山に囲まれる松本の美しい自然が皆を迎え入れた。
 南スペインのグラナダは、荒涼とした岩肌と乾いた平原に囲まれ、このように緑に包まれた景色はない。
「ほら君のお父さんが見て育った日本のシエラネバダだよ」
瞬の言葉を玲子が伝えると、アンドレスは窓に顔を押し付けてを眺めた。
インターから10分程で杉岡のバイクショップに到着した。

「アンドレス君、杉岡が店にいるはずだ。先に行きなさい」
繁田に促されてアンドレは車を降りてひとり店の入り口に立った。
店内で作業していた繁田は、入口に立った逆光のシルエットがすぐにアンドレスと察した。立ち上がってじっと見つめると、20数年前に別れた長田の姿が浮かび、思わず「長田」と声をかけそうになった。

「コンニチハ、アンドレスです」
「待っていたよ、よく来たね」
杉岡は握手しながらアンドレスの顔をまじまじと見た。
他の3人も降りてアンドレスの後ろに立った。
「繁田、長田の息子に間違いない。奴の若い頃にそっくりだ」

「アンドレス君は明後日成田を発つ予定なんだ。今晩泊めてあげたい」
「そうしなさい。俺もゆっくり話したい」
杉岡は皆を2階の居間に誘い、真知も交えて話をした。

 瞬は昨日アンドレスから聞いた長田のあらたな情報を父に伝えた。
「長田さんは、グラナダに住み着く3年前にもフラメンコギターの勉強の為に2ヶ月程滞在して、その時ジプシーのフラメンコダンサーであるカルメラさんと知り合ったらしい。そして2度目の訪問の時、カルメラさんの親族にお金を渡して一緒に生活させて欲しいと云ったそうです。不法滞在になろうと、もう日本へ帰る気持ちはないと。そしてフラメンコギターの腕を上げ、ジプシーの社会でずっと暮らしたいと云ったそうです」

 杉岡はその長田の気持ちが理解出来た。妻を自殺に追い込み、故郷も追われた長田の行き場はそこしかなかったからだ。杉岡は用意していた長田の写真を差し出した。中学から高校の頃の数枚だ。アンドレスはそれを食い入るように見つめた。似ている、と云う皆からの言葉にアンドレスは嬉しそうに微笑んだ。
杉岡は長田の最後を詳しく知りたかった。それをアンドレスが話し始めた。

「日本へ来る前に母に全てを聞きました。父は、初めてのステージで母と共演し、成功しました。その興奮で酒を飲み、他のギタリストと喧嘩になりました。そして相手を倒し、そのギターを壊したのです。その相手は母の前の恋人でした。次のステージのある1週間後の夜、現れないので探すと、父はダロ川の河原に腹から血を流して死んでいました。母は事故か自殺だったと云っています。その喧嘩の相手はその後私にギターを教えてくれた師匠でしたが、昨年病気で死にました。私にとって絶えられない程悲しいことでした。
その人はすばらしいギタリストで、私を子供のように可愛がってくれ、私は今でも尊敬しています」

 杉岡が口を挟む事の出来ないグラナダでの昔の出来事である。長田の息子アンドレスの刹那く数奇な運命を憂い、胸が締め付けられる思いがした。

「そうでしたか、分かりました。話してくれてありがとう。今日と明日はお父さんが暮らした松本をしっかり見て行きなさい。案内しますよ」
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 杉岡は長田の生家や育った町や自然を車で案内した。そして長田がいかに心優しく魅力溢れる男であったか話して聞かせた。

 アンドレスはスペインから履いて来た父親の靴を山の見える場所に埋て墓標を立てたいと云う。
「いい場所がある。いつか別荘を立てようと確保してある土地がある。野麦街道を行った安曇村のあたりだ」

 瞬は墓標になる白樺の木と板を準備した。アンドレスはその板にスペイン語で言葉と名前を書いた。瞬はその文字を彫刻刀で彫り貫き、裏には皆の名前も書き入れ、サッシで枠を囲った。

 夕食の後、アンドレスは2階のテラスでしばらく星空を見上げていたが、散歩に出たいとひとりギターを抱えて出かけた。

「今夜はひとりにさせてやるか。瞬、繁田、俺達は一杯やりに行こう」
杉岡は瞬に運転させ中町にある馴染みの居酒屋「穂高亭」へ誘った。

 店主は杉岡の中学時代の同級生で、杉岡は妻の真知を連れて1日おきに訪れる店だ。わずか10坪程の店で、

 「瞬ちゃん、久しぶりだね。おや繁田さんもか、お揃いでどうしたんだ、恐いな〜」
「親父さん、今夜の杉岡は飲むからね、やばいよ」
「馬鹿やろう、余計な事云うな」
瞬は繁田と父の言葉に首を傾げた。

 三人はカウンターに座りしならくアンドレスの話で盛り上がっり、杉岡も久々心置きなく飲んだ。

「ヘッドさっきのヤバい、とはどう云うこと、綾奈を松本に連れて来た時、ヘッドが内の親父と二人で居酒屋をぶち壊したって話、まさかこの店のこと?」
「おっ、察しがいいな〜。20年前だったよな親父さん。お陰で改装できていい店になったじゃないか。瞬は聞いてなかったのか」

 繁田は杉岡の静止も構わず話し始めた。
「もう話してもいいだろう。瞬も少しは覚えているだろう。杉岡がレースで接触事故を起こして相手が亡くなった事があったよな。原因は相手にあったが、マスコミも業界もこいつを責めたんだよ。それだけならまだ良かったが、瞬君、君も親父を責めただろう。幼稚園で相当いじめられたようじゃないか」

そこ迄話すと杉岡が繁田の胸ぐらを掴んできつい顔で云った。
「いいかげんにしろ、今日は美味い酒を飲みに来たんだろう。昔話はやめろ」
「いや分かってるさ、でもな、瞬はもう大人だし、知っておいてもいいのさ」
杉岡はあきらめて手を離し、コップ酒を一気に飲み干した。

「いいか瞬君、それで君がこいつの足を蹴飛ばして「馬鹿」と云ったそうだ。その晩、男泣きして俺に電話して来たのさ。その後もそのショックからか蹴られた足でバイクに乗ると足が震えるようになったようだ。それで俺は気晴らしにこいつを車に乗せて松本に来たのさ。そしてこの店で飲んだんだ。昔この店は小汚くてね、つぶれかかっていたよな、親父さん。杉岡は相当飲んだ勢いで、ビール瓶を床に叩きつけたんだ。そしておい、金払うから暴れさせてくれってんで、この店をぶち壊し始めたのさ。途中から俺も親父さんも加わって、警察が来る程派手にやったよ。だがそれですっきりレースから見を引く決心がついたようだ」

 瞬は忘れていた小さい頃のその日を鮮明に思い出した。5才の時だった、幼稚園で他の子供達にからかわれた言葉があった。
「お前のお父さんは、バイクを辞めるんだってな、僕のお父さんが云ってたよ。弱虫だって」
瞬は悔しくて悲しくてその子を殴った。それを見た保母にきつく叱られ泣いて帰った。瞬は辞めずに戦って欲しかったのだ。
 その晩酒を飲んで帰った父親を「馬鹿」と叫んで蹴ったのだ。その後しばらくして杉岡はレース会を去り、家族で松本に戻りバイクショップを始めた。

 瞬はその誤解を悔やむのは辞めようと思った。そして杉岡に顔を向けて云った。
「残念だな、その時もし僕もいたら一緒に暴れて付き合ったのに。気持ちよかっただろうね」
杉岡は瞬の言葉に一瞬耳を疑った。そしてグスグスと涙を流しながら、声を出して笑い始めた。繁田も手を叩いて笑った。

「瞬ちゃん、いやなこと云うね、他にお客がいなかったらこの人又やりかねないよ」

「瞬君、ついでだ、もうひとつ笑える話がある。杉岡がまだトップレーサーの頃に親父とお袋のセックスシーンを見たそうだな。覚えていないか。あの頃じゃまだ分からんか」
繁田の話を杉岡がまた静止した。
「おい、もういいかげんにしろ」
「いや、いや、あの時は困ったってお前云ってたじゃないか」

 瞬はもうひとつ心の片隅に忘れようとゴミ箱にいれたままの記憶が蘇った。
父が有名になり、あまり家に帰らなくなったある日、幼稚園から帰ると両親の寝室で母の声がした。ドア越しに見ると母親が男に抱かれて声を発していた。父親が遊んでくれない寂しさをいつも癒してくれた母の愛情を他人に取られたようで、悲しくて又外に飛び出した辛い思いでを。
 瞬はその時から子供心に女心の儚さを感じ、大人になっても信じ切れない胸のつかえとなっていた。

「お袋さんは直ぐに気が付いたそうだが、途中で止められなかったようだ。そりゃ無理もないは。この親父も恥ずかしくって、終わったら又すぐでかけたそうだ。妹の菜月ちゃんは多分その時の子だな」

杉岡は苦笑いしながら又コップ酒をあおった。
「その通りだよ、あの頃は他にも女はいたけどな、やっぱり母ちゃんが一番よかったさ。その精魂込めて作ったのが菜月だよ。悪いか」

瞬は他愛もない二人の話に、自分が今迄大きな勘違いをしていたことを知った。
 瞬はそんな素の父親を見るのは初めてで、酔って馬鹿な話をする二人が愛おしく感じた。

 翌日全員で安曇村へ向かった。
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安房峠と上高地に近く自然に囲まれた丘の上に長田の墓標が立てられた。皆の祈りが終わるとアンドレスがギターを出した。長田が日本から持って行ったもので、瞬がグラナダで弾いたものだ。

 昨夜、アンドレスはギターを抱えて一人で散歩に出た。それは父の故郷を訪れた気持ちを歌にする為だっだ。

 アンダルシア独特の音階がAメジャーのスケールで静かに刻まれ、あたりの空気を沈めるように流れ渡った。皆は身じろぎもせず息を止めてその旋律に心を集中した。しばらくしてアンドレスのカンテが始まった。深い悲しみを込めたティエントだ。アンドレスの語りかけるような声は周りの木立や草花に染み入るように流れ、やがてギターが激しい和音をかき鳴らし、アンドレスの感情溢れるかん高い声が遠くの山々まで響き渡った。

 そのカンテと演奏に皆は言葉は分からずとも強く胸打たれ涙した。スペイン語の分かる玲子はその歌詞に肩を震わせ声を上げて泣いた。

「あなたは私を抱くこともなくこの世を去り、心彷徨い身は流転し長い流浪の旅を続けた。母はあなたを失い、代わりに私が生まれた。何と悲しい運命だ。しかし今、シエラネバダはあなたの願いを叶えた。松本はあなたの故郷。アルプスはあなたの心。抱かれて眠りなさい。今にして私の心は今日の空のように晴れた。アディオスおとうさん」

 アンドレスとの別れに、杉岡は一冊のアルバムと封筒を差し出した。アルバムには長田の写真、松本の風景、昨日写した皆の集合写真。そして封筒には現金が10万円入れてあった。
「このお金は、昔私が長田君から借りていたものだ。返すことが出来ずに困っていた。お母さんに渡して欲しい。又いつでも遊びに来なさい」

 アンドレスは一瞬ためらいながらも素直に礼を云って受け取り、杉岡と固く抱き合い別れを告げた。
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つづく(次回は4/30頃の予定です)

by june_head | 2009-04-27 01:10 | 第三十六話  

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