「愛と光と巡礼の夏」第二十六話
パリが近づくにつれ、高速道路は低い丘を切り抜け、橋を渡り、次第に緑に囲まれた民家やアパートの集落が見えてきた。しばらくすると、小刻みに現れるインターから流入する車で道路は混雑し、景色はパリ郊外の密集した建物と、ロードサイドの商業看板で賑やかになった。
「瞬、もうパリだよ。何だか懐かしい」
綾奈は一年振りのパリ帰省で何かが動きだす思いがして、瞬の背中へ強くしがみついた。
「やっと着いたな。ちょっと興奮するよ」
瞬は期待と不安を持って敵地へ入る思いだ。
左手にセーヌ川が現れ、前方にパリ市内をグルリと囲む環状高速が見える。パリの東側から入ったバイクは、そこで高速を降り一般道路に入った。
市内を流れるセーヌの一番上流に架かるアモン橋を渡り、そのまま左岸に沿いにパリ中心部に向けて走ることにした。そこからシテ島までは2kmもない。
オーステルリッツ駅を左に見ながら通過すると前方にシュルー橋が見え、対岸にサン・ルイ島が見えて来た。瞬はバイクを路肩に止め、綾奈を誘ってセーヌ川の岸辺に立った。
「綾奈、今5時だけどどうしよう」
「父は退院して家に帰っているから、少しパリ市内を見学してから私の家に行こうか」
「OKじゃあまずパリ観光。後ろでナビと解説頼むよ。とりあえずパリの地理と雰囲気がわかればいいから予定は1時間。その後綾奈の家へ行こう」
「いいわ、でもそういうところは相変わらず合理主義ね」
「又そんな嫌みを云いやがって、限られた貴重な時間だし、日本じゃガイドブック持って旅をしたことないよ。自分の目で見て感じる主義だからな」
「嫌みだなんて失礼ね。ちょっと皮肉っただけじゃない。私日本語不得意なんで、私の大きな目に免じて大目に見て欲しいわ」
「いや綾奈は目より口の方が大きく見えるよ」
二人は愛を確認し合うようにこうしてジョークを飛ばし合う。
再び走り出すと今度はシテ島が見え、セーヌのゆるやかな流れの向こうにノートルダム大聖堂が、堂々としたゴシック建築の威厳をもって佇んでいる。
大聖堂は1163年に司教モーリス・ドシュリーによって着工され、1345年に完成した。現在もローマ・カトリック教会のパリ大司教座聖堂として君臨している。
「瞬、どうする?」
「いや今日はいい、明日ゆっくり見たい。今日の俺はおのぼりの観光客でいいよ。でもエッフェル塔には登るぞ」
「ウイ ムッシュ、大聖堂を過ぎるとルーブルが見えるから、そしたら左に曲がってモンパルナスを経由してエッフェル塔に行きましょ」
バイクはサンジェルマン通りを横切り、高さ210mのモンパルナスタワーを目標に緩やかな坂の大通りをゆっくり登った。
モンパルナスは現在、トゥール、ボルドー、ル・マン方面へのTGVが発着するモンパルナス駅を中心に、オフィスや商業が集まる街である。しかし第1次大戦後の1920年頃から世界各地から芸術家が移り住み、ボヘミアンと云われる自由奔放な生き方で歴史に残る芸術家を数多く生み出し、エコール・ド・パリの時代を作った街であった。
二人はモンパルナス駅構内のカフェに座り、発着する列車と人々を眺めながら一息いれた。
「レオナール・フジタ(藤田嗣治)や岡本太郎も居たらしいな」
「そうよ、その前はモンマルトルの丘が中心だったけど、高級住宅街になってからだんだん家賃の安いモンパルナスへ移ってきたの。でも第2次世界大戦やナチスの侵攻で皆バラバラに離れていったみたい。その後はカルチェラタンに近いサンジェルマン・デ・プレに集まるようになったの」
「鷹山先生もその街に下宿していたんだよな。よくカルチェラタンの話を聞かされたよ。当時カラ瓶を持参してワインを詰めてもらうと50円位だったって。金がないからそれを飯代わりに飲んでいたと自慢してたよ」
「父がね、あいつは安いワインしか知らないくせに今でもワインについては能書きが多い、って云っていたわ」
「分かるよ、俺なんかなんにも知らないから感心して聞くだろう。先生はゴキゲンでさ、そのお陰で何本も飲ませてもらっているけどね」
「ヘッドもそうよ。あの人はずるいからいつも小父さまをおだてて高いワインを開けさせるんだって、自慢してた」
「やだね、おじさん連中は」
モンパルナスから北西へゆっくり下り、パリ万博が開かれた広いシャン・ドゥ・マルス公園の横を走ると目の前にエッフェル塔が待っていた。
1889年のパリ万博に合わせて建設されたが、当時の文化人達から街の景観を壊すと酷評され、万博後に解体が決定されたが、無線通信の登場で、アンテナの目的で延命された。
塔の下に着くとエレベーターは長蛇の列であった。
「私ね、このエレベーターに乗った事ないの。階段の方が早いし安いからそうしよう」
115mの第2展望台まで700段ある。綾奈は瞬と手を繋ごうとするが
「やだよ、お前先に行けよ、遅いと尻を叩くぞ」
そう云われた綾奈は奇声をあげながら駆け足で階段を昇った。瞬が段数を数えながらゆっくり登って行くと、階段の踊り場に老婦人が座り込んで荒い息をしている。夫らしき老紳士が横に座り優しく肩を抱いている。
「大丈夫ですか、もしよかったらどうぞ」と瞬が英語で声をかけ、買ったばかりのペットボトルを差し出した。紳士は礼を云いそのボトルを夫人の手に握らせた。フランス人だ。夫人はゆっくり顔を上げ赤く日焼けした顔で笑顔を作り、ボトルの水を何度も何度も口に含み飲み込んだ。
「ありがとう、大丈夫よ。もう何度も登っているから今日も自分の足で登りたかったの」
すると紳士が
「心臓が弱くなってね、今薬飲んだからもうすぐ良くなるよ」
先を行った綾奈が降りて来た。事情を知った綾奈は夫人の手を握って話しを始めた。
「瞬、このお二人は昔この階段で出会って結婚したんだって。それから毎年記念日にこの階段で塔に登っているそうよ。素敵な記念日だわ」
老紳士は瞬の耳元で「今年が最後になるかもしれないけど、来年も又来れるように毎日マリア様に祈るよ」
瞬は大きくうなずきながら「ウイ ウイ」と小さな声で答えた。
しばらくして別れた二人は手をつなぎ、再び階段を数えながら登った。
「セーヌが流れて、モンマルトの丘があって、何だかホッとするいい眺めだな。綾奈の家はどの辺にあるの」
「ほらルーブルが見えるでしょ。そのずーっと先のヴィレモンブルという町。バイクで30分位。私はそこで生まれて育ったの」
「そうか、東京タワーからちょうど俺達が住んでいる川崎位の距離だ。OKもうだいたいの地理は頭に入った。凱旋門からシャンゼリゼを走ってそのまま綾奈の家に行くか」
「ムッシュ、相変わらず気まぐれね。でも私も早く帰りたいからいいわ」
シャンゼリゼ通りの歩道やカフェは、肌を露出したカラフルな夏服やサングラスで溢れ、原宿通りのような賑わいだった。
<マニエルノアール>
綾奈の家は郊外の古い住宅地の奥にあり、道案内やカーナビがない限りたどり着けそうもない場所にあった。白いブロックに囲まれた家の庭には鮮やかな色の草花が咲き、門には厚い木を彫り抜いたFUJIKURAの小さな表札があった。
バイクの音で気が付いたのか綾奈の母親祥子が窓から手を振った。エッフェル塔の上から綾奈が電話で知らせていたのだ。
「ただいま、瞬も来たよ」
瞬は照れくさそうに丁寧に頭を下げた。
玄関に入ると父篤志が今の奥のソファーに深々と腰掛け、パイプを持った右手を高くあげた。
「お父さん、ただいま。杉岡さんも一緒だよ」
綾奈は瞬を父親の前に連れてゆき紹介した。篤志はゆっくり立ち上がるとパイプを左手に持ち替え握手を求めた。目の前に立った藤倉は瞬より背が高く、がっしりとした手で瞬の手は痛い程強く握り絞められた。
「よく来たね。鷹山から話を聞いている。いい旅をして来たようじゃないか」
その声は低く、ドスの利いた迫力に瞬は狼狽えた。
「いえ、何を見て来たのか今も頭の中は整理がつかなくて、このまま帰ったら鷹山先生にまた叱られそうです。いろいろ教えて下さい」
瞬はそう云って握られた手を引いて離した。
「そうか、いやそうかもしれんな。しかし半分光を失った私が君に何を教えられるかな」
藤倉は笑いながらそう云い、瞬の肩に手をやり目の前の椅子に座らせた。そして綾奈を抱きしめ、綾奈の額にキスし、顔を近づけて云った。
「久しぶりだなこの可愛い顔を見るのは。楽しかったか」その言葉に綾奈の目からみるみる涙がこぼれた。
「ゴメンね、病院へ行かなくて。でも心配してたし、毎日お祈りも」
「いいんだ。いいんだ。お前が幸せならそれでいいんだよ。俺はもうすっかり調子が戻った。心配するな」
祥子が準備してあったワインを二人のグラスに注いだ。そして藤倉のグラスにも。
「嬉しいな、久しぶりのワインだ。当分酒は御法度だと飲ませてくれなかったからな」
「いえ、夜中に飲んでいるのを知ってますよ。量を見れば分かるし。自分の身体のこともうどうでもいいと思っているんでしょ」
そう云う祥子の顔は何故か穏やかで優しい口調であった。久々の娘の帰宅に嬉しさが勝っていたのだろうか。
「これだよ、参るね杉岡君。パリの女は強いからな。でも最近は少し優しくなったがな。どうだ綾奈は優しいか」
「あっ、はい、とっても」
瞬はそう云いながら綾奈の目を見て舌を出した。
「杉岡君、そりゃ嘘だろう。声で分かる。日本人は亭主関白でいかんとダメだぞ」
「ほら、もう始まった。この人は熊本生まれだから、札幌で生まれた私の方が強いのが悔しいらしいのよ。ねえ綾奈」
祥子はそう云って笑った。
綾奈が祥子に話して聞かせる旅の話しを、藤倉と瞬は時々口を挟む程度でニコやかに聞きいていた。夜10時を過ぎ、気が付くと藤倉はソファーにうずくまって鼾をかいている。
「もうお父さん寝かせた方がいいわね」
綾奈が立ち上がって父親の肩を揺すった。腕を取るが大きな身体はビクともしない。
「綾奈、俺が手伝うよ。」
瞬は綾奈と一緒に藤倉を起こし、抱えながら隣の部屋へ運びベットに寝かせた。その部屋は藤倉のアトリエでそこが彼のベッドルームでもある。
綾奈が居間に戻った後も瞬は部屋に残り、そのアトリエを見渡した。窓際のデスクには彫りかけの銅版画が数枚きれいに並べてある。その周辺にはキッチリと整理された道具が整然と並び、隣のテーブルには刷り上げたばかりの黒一色の版画が1枚、ゴム板の上にきちっと置かれている。
「これだ、マニエルノアールだ」
瞬はデスクのライトを付け息を止めて顔を近ずけた。
「こ、これは」
瞬はその絵柄に息が詰まった。
マニエルノアール(黒の技法)は、銅版の表面に無数の線や傷を彫り、黒インク一色で絵を浮かび上がらせるもので、黒から白への諧調で中間調子も美しく表現されるメゾチントの技法でもある。
これは大正時代に銅版画技法を修得するため、27歳でフランスに渡った日本の木版画家長谷川潔が、その技法を習得しさらに高い創造性で確立して評価を得た。
既に没した今もその評価と人気は高く、学ぶ人々の手本となっている。
瞬は彫った銅板に緻密に彫られた極細の線を、顔が付く程近ずけてたどった。
絵柄は幼い少女の顔の頬に小さなてんとう虫が描かれている。
「これは綾奈の目だ」
マニルノアールは、平刃のロッカー、小さなローラー刃のルーレット、そしてカッター等で銅板に彫る。瞬はそれを美大の授業で方法だけは習った。
「鷹山先生が藤倉さんの版画の話をしてくれたが、人物画ではない。それは日本の山や海や田舎の風景だった」
藤倉は日本の美大時代に国内を旅して描いたスケッチ画を持ってパリに渡り、油絵を学びやがて画家として一定の評価を得た。しかし10数年前、病で視力を落とし、さらに極度な色弱となり生活の為に油絵から版画に転向していた。
「今、綾奈の顔を描くことに何か意味があるのだろうか。いや単なる愛おしさか」
「見られてしまったか、まあいいだろう。それは暇つぶしだよ。最近注文が少ないのでね」
いつの間に目を覚ました藤倉がベッドから声をかけた。
「すみません勝手に、マニエルノアールの原版を見たのは初めてだったので」
すると藤倉が突然起き上がり、ベッドに胡座をかき、あの低い声で問いかけた。
「君は光を求めて旅をしてるのか、それとも闇を求めて旅をしているのか」
瞬はその唐突な質問の深意が分からず、戦きながら藤倉の目を凝視した。
目の悪いはずの藤倉が、薄暗い部屋の隅から自分の目をえぐる程の鋭い視線を向けている。
瞬はその目線を外そうとしたが、金縛りのように瞬きもできない。
自分はまぎれもなく光を求めて旅をしている。それなのに闇を求めるとはどう云う意味なのか。
「光、闇、光、闇」
瞬は頭の中を駆け巡るその反意語の答えを口に出す事ができない。瞬の身体は次第に震え出した。瞬は耐えきれずたまらず声を発した
「光を求めて」
藤倉は何も答えず、ひとつ瞬きをしてバタッとベッドに倒れ込んだ。
そして又大きな鼾をかき眠り込んだ。
瞬は動悸を押さえ、額の汗を拭いながら藤倉をベッドの中央に移し、部屋を出た。
綾奈と祥子はまだおしゃべりしていた。
「瞬ももう眠たいでしょ。ご免ね、私の部屋へ行こう」
「そうだな、ちょっと疲れが出たみたいだ」
瞬はそのままベッドに入りシーツをかぶった。しかし寝付けない。
「何だろうこの胸騒ぎ。闇とは何だろう」その自問自答はまだ続いた。
気が付くと綾奈が瞬の手をしっかり握って寝ていた。そして瞬もいつの間にか深い眠りに落ちていった。
つづく
次回第二十七話は1/10にアップします。
パリが近づくにつれ、高速道路は低い丘を切り抜け、橋を渡り、次第に緑に囲まれた民家やアパートの集落が見えてきた。しばらくすると、小刻みに現れるインターから流入する車で道路は混雑し、景色はパリ郊外の密集した建物と、ロードサイドの商業看板で賑やかになった。
「瞬、もうパリだよ。何だか懐かしい」
綾奈は一年振りのパリ帰省で何かが動きだす思いがして、瞬の背中へ強くしがみついた。
「やっと着いたな。ちょっと興奮するよ」
瞬は期待と不安を持って敵地へ入る思いだ。
左手にセーヌ川が現れ、前方にパリ市内をグルリと囲む環状高速が見える。パリの東側から入ったバイクは、そこで高速を降り一般道路に入った。
市内を流れるセーヌの一番上流に架かるアモン橋を渡り、そのまま左岸に沿いにパリ中心部に向けて走ることにした。そこからシテ島までは2kmもない。
オーステルリッツ駅を左に見ながら通過すると前方にシュルー橋が見え、対岸にサン・ルイ島が見えて来た。瞬はバイクを路肩に止め、綾奈を誘ってセーヌ川の岸辺に立った。
「綾奈、今5時だけどどうしよう」
「父は退院して家に帰っているから、少しパリ市内を見学してから私の家に行こうか」
「OKじゃあまずパリ観光。後ろでナビと解説頼むよ。とりあえずパリの地理と雰囲気がわかればいいから予定は1時間。その後綾奈の家へ行こう」
「いいわ、でもそういうところは相変わらず合理主義ね」
「又そんな嫌みを云いやがって、限られた貴重な時間だし、日本じゃガイドブック持って旅をしたことないよ。自分の目で見て感じる主義だからな」
「嫌みだなんて失礼ね。ちょっと皮肉っただけじゃない。私日本語不得意なんで、私の大きな目に免じて大目に見て欲しいわ」
「いや綾奈は目より口の方が大きく見えるよ」
二人は愛を確認し合うようにこうしてジョークを飛ばし合う。
再び走り出すと今度はシテ島が見え、セーヌのゆるやかな流れの向こうにノートルダム大聖堂が、堂々としたゴシック建築の威厳をもって佇んでいる。
大聖堂は1163年に司教モーリス・ドシュリーによって着工され、1345年に完成した。現在もローマ・カトリック教会のパリ大司教座聖堂として君臨している。
「瞬、どうする?」
「いや今日はいい、明日ゆっくり見たい。今日の俺はおのぼりの観光客でいいよ。でもエッフェル塔には登るぞ」
「ウイ ムッシュ、大聖堂を過ぎるとルーブルが見えるから、そしたら左に曲がってモンパルナスを経由してエッフェル塔に行きましょ」
バイクはサンジェルマン通りを横切り、高さ210mのモンパルナスタワーを目標に緩やかな坂の大通りをゆっくり登った。
モンパルナスは現在、トゥール、ボルドー、ル・マン方面へのTGVが発着するモンパルナス駅を中心に、オフィスや商業が集まる街である。しかし第1次大戦後の1920年頃から世界各地から芸術家が移り住み、ボヘミアンと云われる自由奔放な生き方で歴史に残る芸術家を数多く生み出し、エコール・ド・パリの時代を作った街であった。
二人はモンパルナス駅構内のカフェに座り、発着する列車と人々を眺めながら一息いれた。
「レオナール・フジタ(藤田嗣治)や岡本太郎も居たらしいな」
「そうよ、その前はモンマルトルの丘が中心だったけど、高級住宅街になってからだんだん家賃の安いモンパルナスへ移ってきたの。でも第2次世界大戦やナチスの侵攻で皆バラバラに離れていったみたい。その後はカルチェラタンに近いサンジェルマン・デ・プレに集まるようになったの」
「鷹山先生もその街に下宿していたんだよな。よくカルチェラタンの話を聞かされたよ。当時カラ瓶を持参してワインを詰めてもらうと50円位だったって。金がないからそれを飯代わりに飲んでいたと自慢してたよ」
「父がね、あいつは安いワインしか知らないくせに今でもワインについては能書きが多い、って云っていたわ」
「分かるよ、俺なんかなんにも知らないから感心して聞くだろう。先生はゴキゲンでさ、そのお陰で何本も飲ませてもらっているけどね」
「ヘッドもそうよ。あの人はずるいからいつも小父さまをおだてて高いワインを開けさせるんだって、自慢してた」
「やだね、おじさん連中は」
モンパルナスから北西へゆっくり下り、パリ万博が開かれた広いシャン・ドゥ・マルス公園の横を走ると目の前にエッフェル塔が待っていた。
1889年のパリ万博に合わせて建設されたが、当時の文化人達から街の景観を壊すと酷評され、万博後に解体が決定されたが、無線通信の登場で、アンテナの目的で延命された。
塔の下に着くとエレベーターは長蛇の列であった。
「私ね、このエレベーターに乗った事ないの。階段の方が早いし安いからそうしよう」
115mの第2展望台まで700段ある。綾奈は瞬と手を繋ごうとするが
「やだよ、お前先に行けよ、遅いと尻を叩くぞ」
そう云われた綾奈は奇声をあげながら駆け足で階段を昇った。瞬が段数を数えながらゆっくり登って行くと、階段の踊り場に老婦人が座り込んで荒い息をしている。夫らしき老紳士が横に座り優しく肩を抱いている。
「大丈夫ですか、もしよかったらどうぞ」と瞬が英語で声をかけ、買ったばかりのペットボトルを差し出した。紳士は礼を云いそのボトルを夫人の手に握らせた。フランス人だ。夫人はゆっくり顔を上げ赤く日焼けした顔で笑顔を作り、ボトルの水を何度も何度も口に含み飲み込んだ。
「ありがとう、大丈夫よ。もう何度も登っているから今日も自分の足で登りたかったの」
すると紳士が
「心臓が弱くなってね、今薬飲んだからもうすぐ良くなるよ」
先を行った綾奈が降りて来た。事情を知った綾奈は夫人の手を握って話しを始めた。
「瞬、このお二人は昔この階段で出会って結婚したんだって。それから毎年記念日にこの階段で塔に登っているそうよ。素敵な記念日だわ」
老紳士は瞬の耳元で「今年が最後になるかもしれないけど、来年も又来れるように毎日マリア様に祈るよ」
瞬は大きくうなずきながら「ウイ ウイ」と小さな声で答えた。
しばらくして別れた二人は手をつなぎ、再び階段を数えながら登った。
「セーヌが流れて、モンマルトの丘があって、何だかホッとするいい眺めだな。綾奈の家はどの辺にあるの」
「ほらルーブルが見えるでしょ。そのずーっと先のヴィレモンブルという町。バイクで30分位。私はそこで生まれて育ったの」
「そうか、東京タワーからちょうど俺達が住んでいる川崎位の距離だ。OKもうだいたいの地理は頭に入った。凱旋門からシャンゼリゼを走ってそのまま綾奈の家に行くか」
「ムッシュ、相変わらず気まぐれね。でも私も早く帰りたいからいいわ」
シャンゼリゼ通りの歩道やカフェは、肌を露出したカラフルな夏服やサングラスで溢れ、原宿通りのような賑わいだった。
<マニエルノアール>
綾奈の家は郊外の古い住宅地の奥にあり、道案内やカーナビがない限りたどり着けそうもない場所にあった。白いブロックに囲まれた家の庭には鮮やかな色の草花が咲き、門には厚い木を彫り抜いたFUJIKURAの小さな表札があった。
バイクの音で気が付いたのか綾奈の母親祥子が窓から手を振った。エッフェル塔の上から綾奈が電話で知らせていたのだ。
「ただいま、瞬も来たよ」
瞬は照れくさそうに丁寧に頭を下げた。
玄関に入ると父篤志が今の奥のソファーに深々と腰掛け、パイプを持った右手を高くあげた。
「お父さん、ただいま。杉岡さんも一緒だよ」
綾奈は瞬を父親の前に連れてゆき紹介した。篤志はゆっくり立ち上がるとパイプを左手に持ち替え握手を求めた。目の前に立った藤倉は瞬より背が高く、がっしりとした手で瞬の手は痛い程強く握り絞められた。
「よく来たね。鷹山から話を聞いている。いい旅をして来たようじゃないか」
その声は低く、ドスの利いた迫力に瞬は狼狽えた。
「いえ、何を見て来たのか今も頭の中は整理がつかなくて、このまま帰ったら鷹山先生にまた叱られそうです。いろいろ教えて下さい」
瞬はそう云って握られた手を引いて離した。
「そうか、いやそうかもしれんな。しかし半分光を失った私が君に何を教えられるかな」
藤倉は笑いながらそう云い、瞬の肩に手をやり目の前の椅子に座らせた。そして綾奈を抱きしめ、綾奈の額にキスし、顔を近づけて云った。
「久しぶりだなこの可愛い顔を見るのは。楽しかったか」その言葉に綾奈の目からみるみる涙がこぼれた。
「ゴメンね、病院へ行かなくて。でも心配してたし、毎日お祈りも」
「いいんだ。いいんだ。お前が幸せならそれでいいんだよ。俺はもうすっかり調子が戻った。心配するな」
祥子が準備してあったワインを二人のグラスに注いだ。そして藤倉のグラスにも。
「嬉しいな、久しぶりのワインだ。当分酒は御法度だと飲ませてくれなかったからな」
「いえ、夜中に飲んでいるのを知ってますよ。量を見れば分かるし。自分の身体のこともうどうでもいいと思っているんでしょ」
そう云う祥子の顔は何故か穏やかで優しい口調であった。久々の娘の帰宅に嬉しさが勝っていたのだろうか。
「これだよ、参るね杉岡君。パリの女は強いからな。でも最近は少し優しくなったがな。どうだ綾奈は優しいか」
「あっ、はい、とっても」
瞬はそう云いながら綾奈の目を見て舌を出した。
「杉岡君、そりゃ嘘だろう。声で分かる。日本人は亭主関白でいかんとダメだぞ」
「ほら、もう始まった。この人は熊本生まれだから、札幌で生まれた私の方が強いのが悔しいらしいのよ。ねえ綾奈」
祥子はそう云って笑った。
綾奈が祥子に話して聞かせる旅の話しを、藤倉と瞬は時々口を挟む程度でニコやかに聞きいていた。夜10時を過ぎ、気が付くと藤倉はソファーにうずくまって鼾をかいている。
「もうお父さん寝かせた方がいいわね」
綾奈が立ち上がって父親の肩を揺すった。腕を取るが大きな身体はビクともしない。
「綾奈、俺が手伝うよ。」
瞬は綾奈と一緒に藤倉を起こし、抱えながら隣の部屋へ運びベットに寝かせた。その部屋は藤倉のアトリエでそこが彼のベッドルームでもある。
綾奈が居間に戻った後も瞬は部屋に残り、そのアトリエを見渡した。窓際のデスクには彫りかけの銅版画が数枚きれいに並べてある。その周辺にはキッチリと整理された道具が整然と並び、隣のテーブルには刷り上げたばかりの黒一色の版画が1枚、ゴム板の上にきちっと置かれている。
「これだ、マニエルノアールだ」
瞬はデスクのライトを付け息を止めて顔を近ずけた。
「こ、これは」
瞬はその絵柄に息が詰まった。
マニエルノアール(黒の技法)は、銅版の表面に無数の線や傷を彫り、黒インク一色で絵を浮かび上がらせるもので、黒から白への諧調で中間調子も美しく表現されるメゾチントの技法でもある。
これは大正時代に銅版画技法を修得するため、27歳でフランスに渡った日本の木版画家長谷川潔が、その技法を習得しさらに高い創造性で確立して評価を得た。
既に没した今もその評価と人気は高く、学ぶ人々の手本となっている。
瞬は彫った銅板に緻密に彫られた極細の線を、顔が付く程近ずけてたどった。
絵柄は幼い少女の顔の頬に小さなてんとう虫が描かれている。
「これは綾奈の目だ」
マニルノアールは、平刃のロッカー、小さなローラー刃のルーレット、そしてカッター等で銅板に彫る。瞬はそれを美大の授業で方法だけは習った。
「鷹山先生が藤倉さんの版画の話をしてくれたが、人物画ではない。それは日本の山や海や田舎の風景だった」
藤倉は日本の美大時代に国内を旅して描いたスケッチ画を持ってパリに渡り、油絵を学びやがて画家として一定の評価を得た。しかし10数年前、病で視力を落とし、さらに極度な色弱となり生活の為に油絵から版画に転向していた。
「今、綾奈の顔を描くことに何か意味があるのだろうか。いや単なる愛おしさか」
「見られてしまったか、まあいいだろう。それは暇つぶしだよ。最近注文が少ないのでね」
いつの間に目を覚ました藤倉がベッドから声をかけた。
「すみません勝手に、マニエルノアールの原版を見たのは初めてだったので」
すると藤倉が突然起き上がり、ベッドに胡座をかき、あの低い声で問いかけた。
「君は光を求めて旅をしてるのか、それとも闇を求めて旅をしているのか」
瞬はその唐突な質問の深意が分からず、戦きながら藤倉の目を凝視した。
目の悪いはずの藤倉が、薄暗い部屋の隅から自分の目をえぐる程の鋭い視線を向けている。
瞬はその目線を外そうとしたが、金縛りのように瞬きもできない。
自分はまぎれもなく光を求めて旅をしている。それなのに闇を求めるとはどう云う意味なのか。
「光、闇、光、闇」
瞬は頭の中を駆け巡るその反意語の答えを口に出す事ができない。瞬の身体は次第に震え出した。瞬は耐えきれずたまらず声を発した
「光を求めて」
藤倉は何も答えず、ひとつ瞬きをしてバタッとベッドに倒れ込んだ。
そして又大きな鼾をかき眠り込んだ。
瞬は動悸を押さえ、額の汗を拭いながら藤倉をベッドの中央に移し、部屋を出た。
綾奈と祥子はまだおしゃべりしていた。
「瞬ももう眠たいでしょ。ご免ね、私の部屋へ行こう」
「そうだな、ちょっと疲れが出たみたいだ」
瞬はそのままベッドに入りシーツをかぶった。しかし寝付けない。
「何だろうこの胸騒ぎ。闇とは何だろう」その自問自答はまだ続いた。
気が付くと綾奈が瞬の手をしっかり握って寝ていた。そして瞬もいつの間にか深い眠りに落ちていった。
つづく
次回第二十七話は1/10にアップします。
# by june_head | 2008-12-31 04:01 | 第二十六話