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「愛と光と巡礼の夏」第二十六話

「愛と光と巡礼の夏」第二十六話

 パリが近づくにつれ、高速道路は低い丘を切り抜け、橋を渡り、次第に緑に囲まれた民家やアパートの集落が見えてきた。しばらくすると、小刻みに現れるインターから流入する車で道路は混雑し、景色はパリ郊外の密集した建物と、ロードサイドの商業看板で賑やかになった。

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「瞬、もうパリだよ。何だか懐かしい」
綾奈は一年振りのパリ帰省で何かが動きだす思いがして、瞬の背中へ強くしがみついた。
「やっと着いたな。ちょっと興奮するよ」
瞬は期待と不安を持って敵地へ入る思いだ。

 左手にセーヌ川が現れ、前方にパリ市内をグルリと囲む環状高速が見える。パリの東側から入ったバイクは、そこで高速を降り一般道路に入った。
 
 市内を流れるセーヌの一番上流に架かるアモン橋を渡り、そのまま左岸に沿いにパリ中心部に向けて走ることにした。そこからシテ島までは2kmもない。
 オーステルリッツ駅を左に見ながら通過すると前方にシュルー橋が見え、対岸にサン・ルイ島が見えて来た。瞬はバイクを路肩に止め、綾奈を誘ってセーヌ川の岸辺に立った。
「綾奈、今5時だけどどうしよう」
「父は退院して家に帰っているから、少しパリ市内を見学してから私の家に行こうか」
「OKじゃあまずパリ観光。後ろでナビと解説頼むよ。とりあえずパリの地理と雰囲気がわかればいいから予定は1時間。その後綾奈の家へ行こう」
「いいわ、でもそういうところは相変わらず合理主義ね」
「又そんな嫌みを云いやがって、限られた貴重な時間だし、日本じゃガイドブック持って旅をしたことないよ。自分の目で見て感じる主義だからな」
「嫌みだなんて失礼ね。ちょっと皮肉っただけじゃない。私日本語不得意なんで、私の大きな目に免じて大目に見て欲しいわ」
「いや綾奈は目より口の方が大きく見えるよ」
二人は愛を確認し合うようにこうしてジョークを飛ばし合う。

 再び走り出すと今度はシテ島が見え、セーヌのゆるやかな流れの向こうにノートルダム大聖堂が、堂々としたゴシック建築の威厳をもって佇んでいる。
 大聖堂は1163年に司教モーリス・ドシュリーによって着工され、1345年に完成した。現在もローマ・カトリック教会のパリ大司教座聖堂として君臨している。
「瞬、どうする?」
「いや今日はいい、明日ゆっくり見たい。今日の俺はおのぼりの観光客でいいよ。でもエッフェル塔には登るぞ」
「ウイ ムッシュ、大聖堂を過ぎるとルーブルが見えるから、そしたら左に曲がってモンパルナスを経由してエッフェル塔に行きましょ」

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 バイクはサンジェルマン通りを横切り、高さ210mのモンパルナスタワーを目標に緩やかな坂の大通りをゆっくり登った。
 モンパルナスは現在、トゥール、ボルドー、ル・マン方面へのTGVが発着するモンパルナス駅を中心に、オフィスや商業が集まる街である。しかし第1次大戦後の1920年頃から世界各地から芸術家が移り住み、ボヘミアンと云われる自由奔放な生き方で歴史に残る芸術家を数多く生み出し、エコール・ド・パリの時代を作った街であった。

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 二人はモンパルナス駅構内のカフェに座り、発着する列車と人々を眺めながら一息いれた。

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「レオナール・フジタ(藤田嗣治)や岡本太郎も居たらしいな」
「そうよ、その前はモンマルトルの丘が中心だったけど、高級住宅街になってからだんだん家賃の安いモンパルナスへ移ってきたの。でも第2次世界大戦やナチスの侵攻で皆バラバラに離れていったみたい。その後はカルチェラタンに近いサンジェルマン・デ・プレに集まるようになったの」
「鷹山先生もその街に下宿していたんだよな。よくカルチェラタンの話を聞かされたよ。当時カラ瓶を持参してワインを詰めてもらうと50円位だったって。金がないからそれを飯代わりに飲んでいたと自慢してたよ」
「父がね、あいつは安いワインしか知らないくせに今でもワインについては能書きが多い、って云っていたわ」
「分かるよ、俺なんかなんにも知らないから感心して聞くだろう。先生はゴキゲンでさ、そのお陰で何本も飲ませてもらっているけどね」
「ヘッドもそうよ。あの人はずるいからいつも小父さまをおだてて高いワインを開けさせるんだって、自慢してた」
「やだね、おじさん連中は」

 モンパルナスから北西へゆっくり下り、パリ万博が開かれた広いシャン・ドゥ・マルス公園の横を走ると目の前にエッフェル塔が待っていた。
 1889年のパリ万博に合わせて建設されたが、当時の文化人達から街の景観を壊すと酷評され、万博後に解体が決定されたが、無線通信の登場で、アンテナの目的で延命された。

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 塔の下に着くとエレベーターは長蛇の列であった。
「私ね、このエレベーターに乗った事ないの。階段の方が早いし安いからそうしよう」
115mの第2展望台まで700段ある。綾奈は瞬と手を繋ごうとするが
「やだよ、お前先に行けよ、遅いと尻を叩くぞ」
そう云われた綾奈は奇声をあげながら駆け足で階段を昇った。瞬が段数を数えながらゆっくり登って行くと、階段の踊り場に老婦人が座り込んで荒い息をしている。夫らしき老紳士が横に座り優しく肩を抱いている。
「大丈夫ですか、もしよかったらどうぞ」と瞬が英語で声をかけ、買ったばかりのペットボトルを差し出した。紳士は礼を云いそのボトルを夫人の手に握らせた。フランス人だ。夫人はゆっくり顔を上げ赤く日焼けした顔で笑顔を作り、ボトルの水を何度も何度も口に含み飲み込んだ。
「ありがとう、大丈夫よ。もう何度も登っているから今日も自分の足で登りたかったの」
すると紳士が
「心臓が弱くなってね、今薬飲んだからもうすぐ良くなるよ」
先を行った綾奈が降りて来た。事情を知った綾奈は夫人の手を握って話しを始めた。
「瞬、このお二人は昔この階段で出会って結婚したんだって。それから毎年記念日にこの階段で塔に登っているそうよ。素敵な記念日だわ」
老紳士は瞬の耳元で「今年が最後になるかもしれないけど、来年も又来れるように毎日マリア様に祈るよ」
瞬は大きくうなずきながら「ウイ ウイ」と小さな声で答えた。

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 しばらくして別れた二人は手をつなぎ、再び階段を数えながら登った。
「セーヌが流れて、モンマルトの丘があって、何だかホッとするいい眺めだな。綾奈の家はどの辺にあるの」
「ほらルーブルが見えるでしょ。そのずーっと先のヴィレモンブルという町。バイクで30分位。私はそこで生まれて育ったの」

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「そうか、東京タワーからちょうど俺達が住んでいる川崎位の距離だ。OKもうだいたいの地理は頭に入った。凱旋門からシャンゼリゼを走ってそのまま綾奈の家に行くか」
「ムッシュ、相変わらず気まぐれね。でも私も早く帰りたいからいいわ」

 シャンゼリゼ通りの歩道やカフェは、肌を露出したカラフルな夏服やサングラスで溢れ、原宿通りのような賑わいだった。

<マニエルノアール>
 綾奈の家は郊外の古い住宅地の奥にあり、道案内やカーナビがない限りたどり着けそうもない場所にあった。白いブロックに囲まれた家の庭には鮮やかな色の草花が咲き、門には厚い木を彫り抜いたFUJIKURAの小さな表札があった。
 バイクの音で気が付いたのか綾奈の母親祥子が窓から手を振った。エッフェル塔の上から綾奈が電話で知らせていたのだ。
「ただいま、瞬も来たよ」
瞬は照れくさそうに丁寧に頭を下げた。

 玄関に入ると父篤志が今の奥のソファーに深々と腰掛け、パイプを持った右手を高くあげた。
「お父さん、ただいま。杉岡さんも一緒だよ」
 綾奈は瞬を父親の前に連れてゆき紹介した。篤志はゆっくり立ち上がるとパイプを左手に持ち替え握手を求めた。目の前に立った藤倉は瞬より背が高く、がっしりとした手で瞬の手は痛い程強く握り絞められた。
「よく来たね。鷹山から話を聞いている。いい旅をして来たようじゃないか」
その声は低く、ドスの利いた迫力に瞬は狼狽えた。
「いえ、何を見て来たのか今も頭の中は整理がつかなくて、このまま帰ったら鷹山先生にまた叱られそうです。いろいろ教えて下さい」
瞬はそう云って握られた手を引いて離した。
「そうか、いやそうかもしれんな。しかし半分光を失った私が君に何を教えられるかな」
藤倉は笑いながらそう云い、瞬の肩に手をやり目の前の椅子に座らせた。そして綾奈を抱きしめ、綾奈の額にキスし、顔を近づけて云った。
「久しぶりだなこの可愛い顔を見るのは。楽しかったか」その言葉に綾奈の目からみるみる涙がこぼれた。
「ゴメンね、病院へ行かなくて。でも心配してたし、毎日お祈りも」
「いいんだ。いいんだ。お前が幸せならそれでいいんだよ。俺はもうすっかり調子が戻った。心配するな」

 祥子が準備してあったワインを二人のグラスに注いだ。そして藤倉のグラスにも。
「嬉しいな、久しぶりのワインだ。当分酒は御法度だと飲ませてくれなかったからな」
「いえ、夜中に飲んでいるのを知ってますよ。量を見れば分かるし。自分の身体のこともうどうでもいいと思っているんでしょ」
そう云う祥子の顔は何故か穏やかで優しい口調であった。久々の娘の帰宅に嬉しさが勝っていたのだろうか。
「これだよ、参るね杉岡君。パリの女は強いからな。でも最近は少し優しくなったがな。どうだ綾奈は優しいか」
「あっ、はい、とっても」
瞬はそう云いながら綾奈の目を見て舌を出した。
「杉岡君、そりゃ嘘だろう。声で分かる。日本人は亭主関白でいかんとダメだぞ」
「ほら、もう始まった。この人は熊本生まれだから、札幌で生まれた私の方が強いのが悔しいらしいのよ。ねえ綾奈」
祥子はそう云って笑った。

 綾奈が祥子に話して聞かせる旅の話しを、藤倉と瞬は時々口を挟む程度でニコやかに聞きいていた。夜10時を過ぎ、気が付くと藤倉はソファーにうずくまって鼾をかいている。
「もうお父さん寝かせた方がいいわね」
綾奈が立ち上がって父親の肩を揺すった。腕を取るが大きな身体はビクともしない。
「綾奈、俺が手伝うよ。」
 瞬は綾奈と一緒に藤倉を起こし、抱えながら隣の部屋へ運びベットに寝かせた。その部屋は藤倉のアトリエでそこが彼のベッドルームでもある。

 綾奈が居間に戻った後も瞬は部屋に残り、そのアトリエを見渡した。窓際のデスクには彫りかけの銅版画が数枚きれいに並べてある。その周辺にはキッチリと整理された道具が整然と並び、隣のテーブルには刷り上げたばかりの黒一色の版画が1枚、ゴム板の上にきちっと置かれている。

「これだ、マニエルノアールだ」
瞬はデスクのライトを付け息を止めて顔を近ずけた。
「こ、これは」
瞬はその絵柄に息が詰まった。

 マニエルノアール(黒の技法)は、銅版の表面に無数の線や傷を彫り、黒インク一色で絵を浮かび上がらせるもので、黒から白への諧調で中間調子も美しく表現されるメゾチントの技法でもある。
 これは大正時代に銅版画技法を修得するため、27歳でフランスに渡った日本の木版画家長谷川潔が、その技法を習得しさらに高い創造性で確立して評価を得た。
既に没した今もその評価と人気は高く、学ぶ人々の手本となっている。

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 瞬は彫った銅板に緻密に彫られた極細の線を、顔が付く程近ずけてたどった。
絵柄は幼い少女の顔の頬に小さなてんとう虫が描かれている。
「これは綾奈の目だ」

 マニルノアールは、平刃のロッカー、小さなローラー刃のルーレット、そしてカッター等で銅板に彫る。瞬はそれを美大の授業で方法だけは習った。
「鷹山先生が藤倉さんの版画の話をしてくれたが、人物画ではない。それは日本の山や海や田舎の風景だった」
 藤倉は日本の美大時代に国内を旅して描いたスケッチ画を持ってパリに渡り、油絵を学びやがて画家として一定の評価を得た。しかし10数年前、病で視力を落とし、さらに極度な色弱となり生活の為に油絵から版画に転向していた。

「今、綾奈の顔を描くことに何か意味があるのだろうか。いや単なる愛おしさか」

「見られてしまったか、まあいいだろう。それは暇つぶしだよ。最近注文が少ないのでね」
いつの間に目を覚ました藤倉がベッドから声をかけた。
「すみません勝手に、マニエルノアールの原版を見たのは初めてだったので」
すると藤倉が突然起き上がり、ベッドに胡座をかき、あの低い声で問いかけた。

「君は光を求めて旅をしてるのか、それとも闇を求めて旅をしているのか」

瞬はその唐突な質問の深意が分からず、戦きながら藤倉の目を凝視した。
目の悪いはずの藤倉が、薄暗い部屋の隅から自分の目をえぐる程の鋭い視線を向けている。
瞬はその目線を外そうとしたが、金縛りのように瞬きもできない。

自分はまぎれもなく光を求めて旅をしている。それなのに闇を求めるとはどう云う意味なのか。
「光、闇、光、闇」
瞬は頭の中を駆け巡るその反意語の答えを口に出す事ができない。瞬の身体は次第に震え出した。瞬は耐えきれずたまらず声を発した
「光を求めて」

 藤倉は何も答えず、ひとつ瞬きをしてバタッとベッドに倒れ込んだ。
そして又大きな鼾をかき眠り込んだ。
瞬は動悸を押さえ、額の汗を拭いながら藤倉をベッドの中央に移し、部屋を出た。

 綾奈と祥子はまだおしゃべりしていた。
「瞬ももう眠たいでしょ。ご免ね、私の部屋へ行こう」
「そうだな、ちょっと疲れが出たみたいだ」

瞬はそのままベッドに入りシーツをかぶった。しかし寝付けない。
「何だろうこの胸騒ぎ。闇とは何だろう」その自問自答はまだ続いた。
気が付くと綾奈が瞬の手をしっかり握って寝ていた。そして瞬もいつの間にか深い眠りに落ちていった。
つづく
次回第二十七話は1/10にアップします。

# by june_head | 2008-12-31 04:01 | 第二十六話  

「愛と光と巡礼の夏」第二十五話

「愛と光と巡礼の夏」第二十五話

  ランスまでは東京から仙台の距離に匹敵する。しかし、海外に出ると移動の距離感が短くなり静岡程の感覚だ。夏のヨーロッパは日が長く、一日1000キロ走るライダーも珍しくない。ましてやバイク走行は単なる移動ではなく、走行そのものがパフォーマンスであり、心地好い風や景色によっては限りなく走り続けたい心境になる。

  二人は葡萄畑やオーリーブの木々が連なる丘を、時速120キロで走った。
フランス北部を東西に貫く道路は、ドイツとパリを結ぶ大動脈であり、車の通行量が多く運転も荒い。したがって二輪バイクは気を抜くと重大事故につながる。
  走行中の二人はおしゃべりを控え、ただひたすら走り続けた。そんな時、ふと頭をよぎるものがある。過去の他愛もない出来事がちぎれ雲のように浮かんでは消え、そしてまた浮かぶ。今何故それが頭に浮かぶのか理由等ない。パソコンの中に捨て忘れて残る古いファイルや画像を、たまたま開いた感覚だろう。それは時を経て見ると懐かしく、今更捨てがたく又そのまま閉じて残す。

  瞬は頭の中の古いファイルを開いた。5才迄住んでいた新宿区四ッ谷の風景だ。家は四ッ谷駅から市ヶ谷方面に徒歩5分程の道路沿いにあった。それは戦後日本で初めて建てられたマンションの先駆けで、4階建の四ッ谷コーポラスという名の建物だ。既に築25年を経ていたが、メゾネットタイプで部屋は広く、周辺環境の良さで居住者は高所得者が多かった。
 
 道路を挟んだ目の前には外堀公園があり、その向こう側を中央線が走っている。マンション4階の窓から、母真知の出た双葉学園が線路の向こうに見え、駅近くには真知が通った上智大学もある。その真知の希望で結婚後四ッ谷に住むようになった。

 真知は子供が出来てから、毎日のように瞬と下の娘を連れて近くを散歩した。最後はいつも上智大学隣りの「イグナチオ教会」に立寄り、祈りを捧げて帰るのが常だった。夫武史は大人しく優しい性格だったが、レースとなると攻撃的で勝ちにこだわり、その限界を超えた走りは常に転倒という危険をはらんでいた。
 真知は自分の母重子が若くして夫を失い、小さな子供3人を抱え、女手ひとつで苦労したことをよく知っている。自分も同じ運命を持つ身かもしれないと、いつも覚悟をしながら神に祈る思いがあった。
 「瞬も神様にお祈りするのよ。お父様が怪我をしないようにね」
まだ幼かった瞬と妹は、小さな手を合わせて目をつむり一緒に祈った。時折薄目を開けて見た母の真剣な顔を、瞬は今バイクを走らせながら思い出していた。

 メッスを過ぎ1時間程走ったあたりでバイクが断続的に減速し始めた。ハッと我に帰った瞬はあわててアクセルを回したが反応がない。メーターはゼロ以下を差している。ガス欠だ。
 瞬はクラッチを切り、エンジンを切り、路肩に移動し惰性で走らせた。直前目にした標識ではガススタンドはまだ10km先である。ライダーとしては初歩的なミスで、日本の高速道路では違反にもなる。
 日本と違いフランスにはガススタンドが少なく、ましてや旧市街には皆無であり、意識しなければ給油を忘れる事を分かっていたはずだ。バイクは次第に速度を落とし、広い路肩で停車した。

「瞬、もしかして」
「そう、ガス欠だ。まずったよ、どうしようかな」
 周りは見渡す限り畑の広がるなだらかな丘だけで、通過する車に手を挙げても停車するものはなく、長い警笛を鳴らしながらフルスピードで走り過ぎて行く。路肩に座り込んだ二人は途方にくれた。
「瞬、キャンピングカーなら予備タンクを積んでると思うよ。私が手を挙げて頼むわ」
綾奈はそういって車を待った。止ってくれた3台目のキャンピングカーがタンクを積んでいた。
 フランス人カップルで5リッター分けてくれた。キャンピングカーの後ろにオフロードバイクHONDA-XR250ccをレッカーで引いている。
「よかったらコーヒを入れますから車に乗りませんか」
誘われて乗り込み、テーブルやベッドまで整った車の中で4人はお互いの旅の話しをした。
「僕はエンデューロ(ダートを走る耐久レース)の選手でね、バカンスと練習を兼ねてフランス全土のコースを廻わる為にメッスを出たばかりさ。いつか日本のレースにも出たいね」
 瞬が父武史は元レーサーで、今バイクショップを経営しているというと、話は更に盛り上がった。大きなソーセージも馳走になり、30分程話をして4人は別れた。

 「オフロードはね、コースが過酷でジャンプもあるし、常に身体を鍛えてテクニックも維持しないと勝てないどころか怪我をする。どちらにしても走れるのは若い内だけだね」
「そうなの、それじゃ瞬はもう年齢的に無理ってことね」
瞬は綾奈をにらみつけ、尻に蹴りを入れた。

 バイクはサービスエリアで給油し、そのまま休まず走り続けた。シャンパーニュの中心都市ランスが近付くと、葡萄畑一色の雄大な景色が続き、時折ドメーヌのシャトーが絵はがきの写真のように威厳を持って佇んでいた。

 ランスは人口約18万人、中世の面影が色濃く残る美しく整った街並で、シャルトル、アミアンと並ぶフランス三大聖堂のひとつ、ノートルダム大聖堂がある。この大聖堂は1211から約百年かけて建設され、シャルル10世までの歴代フランス国王の戴冠式が行われていた。
 石造りの天井の高さはフランス1といわれ、正面の「微笑む天使」「マリアの従者」「聖ヨゼフ」をはじめ、2000体を越えるすばらしい彫像と、荘厳華麗で均整のとれた外観はゴシック建築の最高傑作とまでいわれている。

 ヨーロッパのステンドグラスでは、北はイギリスのグラスゴーから南はローマの間に見るべきものが多いといわれている。そしてパリを中心に半径50〜100km圏内のイルドフランスには、ラン、ルーアン、オルレアン等、ゴシック建築の隆盛を極めた地域であり、大規模な大聖堂がすばらしいステンドグラスを擁するようになった。

 二人は大聖堂近くの案内所脇にバイクを停め、中で日本語とフランス語の案内書を手に入れ聖堂に向かった。国王の戴冠式が行われた大聖堂が目的か、シャンパンが目的かは定かでないが、聖堂前の広場はグループや団体旅行の人々で賑わっていた。
 
 聖堂に入った二人はまず祈りを済まし、100を越える壁のステンドグラスを1点1点見て廻った。
 シャンパン業者の寄進も多かったといわれ、その製造工程を描いた絵のガラスもある。祭壇背後の高い壁面には、1971年に旧約聖書をモチーフにして製作されたシャガールのステンドグラスが、彼独特のタッチで描かれ、鮮やかなブルーを基調として鮮やかな光を透過していた。

 「このガラスはシャガール自身が絵付けしたのかな。彼は晩年ステンドグラス製作が多かったからね」
「これは第二次大戦で壊れた窓にシャガールが制作したと書いてある。以前はどんな絵柄だったのかしら。このガラスは何百年も残って欲しいわね」
 
 雷や戦火の被害を受けることがなくても、百年以上年月を経た大聖堂は少しずつ痛み始め、そのまま放置すると崩れ去る。その為に順次修復を行い、長い年月を掛けて全てを終えた頃又修復の時が来る。それを永遠に繰り返す。その輪廻は神の永遠性を象徴するものでもある。どの大聖堂も同じ道を経て現在があるといってよいだろう。

 二人が聖堂正面のバラ窓のステンドグラスを見上げている時だった。瞬の携帯が鳴った。化粧品屋の繁田からだ。二人は外に出て話した。

「瞬君、私は明日の午後成田を発ってアムステルダム経由でその日の夜着く予定だ。2〜3日はパリでゆっくりするつもりだから君達がパリに着いたら電話してくれ。それから鷹山から美味いワインで一杯やろうなんて電話がきたんで今工房でやっている。君達は本場のワインを毎日飲んでるんだろうけどね。その後は事故無しで無事か?ホセ氏に聞いたよ。可愛い娘を乗せてんだから気を付けなきゃな。まさか高速道路でガス欠はないだろうな。俺は経験したからな、日本みたいにJAFは来てくれないぞ。以上、そっちはどうだ。」

 瞬はまさかガス欠の事迄知るはずはないと思いながら
「ヘッド、相当飲んでご機嫌ですね。充実した旅をしている以外何も報告する事はないですが、田園調布の婆さんが脳梗塞で入院したんで、それが心配です」
「君の親父から聞いて今日見舞って来たよ。山は越したようだけど、しばらく入院らしいな。年齢的にもその後が心配だと思う。帰ったらすぐ顔を出した方がいい。それからグラナダのジプシー、いやそれはいい、じゃあな。いや待て、綾奈君に代わってくれ」
 
 代わった綾奈に対しても繁田は一方的だった。
「綾奈、瞬は親父と一緒で相手次第のところがあるからな、遠慮すんなよ。うじうじしてたらビンタくらわしてやれ。でも優しくな。じゃあ気を付けて、いや待て、鷹山からだが、シャルトルに着いたら瞬に電話しろと云ってくれ。じゃあ」
 繁田はそう話すと電話を切った。

 電話の声は瞬にも全て聞こえていた。
「何だこの親父は、先生とも話そうと思ったのに」
「ヘッドは飲むといつも話しが長いって店長が嘆いていたわ。私の父もそうだし、そういう年代なのかしらね」
「俺の親父と飲むと二人はひどいもんだぜ、昔松本の居酒屋で暴れてメチャメチャに壊したことがあったらしい。そうだ、電話でジプシーと云いかけてた。親父がヘッドに話したんだ。腹を割って話せるのはヘッドぐらいだから。パリで何か聞けるかもしれない」
「その謎が早く知りたいわ」

 二人は再び聖堂内に戻り、正面ファサードの大バラ窓を眺めた。フランスのゴシック様式大聖堂には伝統的に、ファサードと翼廊の先端に大きなバラ窓のステンドグラスが配置されている。それはステンドグラスを通して、神とその教えとその土地の民衆の全ての歴史を表現するものであった。そして日の出から日没迄、常に東西南北から聖堂の闇の中へ神聖な光が降り注ぐ。
 
 綾奈がフランス語で書かれた案内を声に出して読んだ。
「ねえ瞬、この聖堂のステンドグラスは、ほとんど異民族の攻撃とか大戦で何度も壊されて修復されたものらしいよ」
「やっぱりそうなのか、ランスは位置的に遠征の通り道だからな。でもこれだけスケールの大きなバラ窓を完璧に修復する技術や精神力は、やっりキリスト教国だね」
 
 聖堂に3時間程いて外に出ると広場の人は少なく閑散としていた。あの時は観光バスの集まる時間帯だったのだろう。
 外に出てから瞬の様子がおかしく元気がなかった。
「綾奈、ランスはもういいから今日中にパリへ入らないか。全てはパリを起点に人も文化も動いているのし、パリで今迄の旅をゆっくり整理してからシャルトルに向かいたいと思うんだ」
 
 その日はランスに1泊する予定でいた。綾奈は瞬のいきなりの言葉と様子に一瞬戸惑ったが
「そうね、云いたいこと私にもわかる気がする。このままステンドグラスの聖地シャルトルに行ってはいけない何かがあるんでしょ」
「そう、分かるか、何かなんだ。これだけ見て廻って来てもまだ何も分かった気がしない。もうすぐ旅の終わりだというのに、俺の頭の中は焦りだけがぐるぐる廻り始めた」
「そうね、瞬今からパリに向かおう」
瞬は綾奈の同意と笑顔にホッとして笑顔に変わった。

 案内所の前に戻ると停めておいたはずのバイクがない。焦った瞬はを走って探し廻った。周辺の道路には路上駐車する車はなく、すっきりとした道を時たま車が通り過ぎた。

綾奈が案内所に入り話しをして出て来た。
「瞬、駐車違反でたった今警察が運んで行ったって。地図をもらったわ」
「まいった。どこだ、すぐ行こう」
二人が場所を地図で確認していた時、案内所から女性職員が出て来た。
「私の車で連れて行ってあげるわ。注意してあげれば良かったわね」
突然の助けに二人は手を合わせて頼んだ。女性は裏手のパーキングから車を出し二人を乗せて発進した。

「特にこの地域は厳しいの。でも手続き前だったら顔見知りの警官だから多分許してもらえると思うわ」女性は余裕の顔で笑って云った。
 
 瞬は祈る気持ちで黙って前をみた。綾奈はその女性とフランス語でおしゃべりを始めた。
 10分程で警察の駐車場につくと、ちょうど二人の警官がワゴン車からバイクを降ろしている所だった。
 女性は一人の警官に近寄ると、その肩に手を回してキスした。しばらく話しをすると二人を手招きし
「許してくれるって、このまま乗って帰っていいわよ」
 その警官は彼女のボーイフレンドだという。そして警官は瞬に挨拶し握手を求めた。綾奈は女性とハグし礼を告げ、又にこやかに話しをしている。

 瞬は警官の気が変わらぬ内にと、急いでエンジンをかけ綾奈を乗せて発進した。
「瞬の焦った顔が可愛かったよ」
「バカやろう、そりゃ誰だって焦るよ、罰金も高そうだし、時間も取られるし。あ〜又綾奈に弱みを握られた〜」
「やった〜、楽しい〜、パリに帰れるぞ〜」

 しばらくしてバイクは高速A4号に入り、快調に飛ばした。パリは西に130km,約1時間程の距離だ。
                                                                                                                     つづく

次回の26話は12/30アップの予定です。
そして、今迄の原稿全てにそれぞれの旅の写真を加え再度アップしなおし作業中です。
観光ガイドのつもりで読んで頂けると幸いです。

# by june_head | 2008-12-09 00:11 | 第二十五話  

「愛と光と巡礼の夏」第二十四話

「愛と光と巡礼の夏」第二十四話
 星空が深い紺青色に変わり、少しずつ夜が明け始めた時、瞬がベッドのシーツを掴み、うめき声を発して身体を強くよじらせた。スピードを出し過ぎたバイクがカーブで対向車線にはみ出し、自分の身体は宙に投げ出され、綾奈だけを乗せたバイクが闇の中へ突入していく夢を見たのだ。
 瞬は恐怖で息を止め、カッと目を見開き夢から覚めた。隣のベッドに目をやると綾奈がシーツから身体をはみ出し、うつ伏せで顔をこちらに向けて寝ている。
「焦った、昨日の冗談が本当になったら一生巡礼の旅を続けることになる」
 しばらくして倍速の鼓動がおさまると、瞬はベッドの脇に置いたペットボトルの水を一気に飲み干した。

 もう寝付けない瞬は起き上がって窓辺に立ち、まだ暗い空を眺めながら煙草に火をつけた。日本から持参した2箱の最後の1本だ。
「もうこれで最後か。いい機会だ、やめよう」
瞬は旅立ちの前、家に買い置きしていた煙草を2箱残し、あとは全て水に浸けて捨てていた。
 この旅で煙草はやめようと決めたのだ。瞬はナイーブな心の隙間を煙草でごまかす自分を自覚し、いつか抜け出す機会が欲しかった。
 瞬は最後の一服を大きく吸い込み、ゆっくり窓の外に吐き出すと、小さな灰皿に押しつけ火を消した。
「うまかった。お別れだ。しばらく辛いかもしれないけど我慢できそうだ」

 空は次第に明るさを増し、ちぎれ雲の漂う青空に変わり始めた。中世の建物をかすめてゆっくり移動する光と影は今も昔も変わらない。ただ季節によって日の出と日の入りはそれぞれ3〜4時間違う。瞬はそんな思いでしばらく外の景色を眺めた。

 瞬はそれまで恩師鷹山に付き添い、施主から制作依頼を受けたステンドグラスの設置場所を何度も見に行った。立地、窓の向き、部屋の間取り等、朝から夜迄の光の変化も観察し下絵を描く。そしてガラスの色、厚み、素材を検討し、ガラスを発注する。その為に頭でどうイメージし計算するのか、それは光の理論だけでなく、経験とセンスと色ガラスを透過した光をどれだけ多く見て来たかも重要である。
 瞬はステンドグラス探求の道のりが、いかに遠く果てしないものであるか、
この旅で強く感じさせられた。

「瞬、起きてたの。又何か考えていたんでしょう」
「うん、何ということはないけど、旅をするって不思議だなって。こうして朝を迎えると、昨日の日本からの電話も夢だったみたいで実感がない」
「そうだね、でもあと5日で現実の世界に引き戻されるわ。ねえ、もうすぐ聖堂が開くし、お祈りにいこうよ」

 外に出るとすっかり陽は昇り、旧市街の中央にあるクレベール広場(鉄の男広場)周辺では、たくさんのトラムがかすかなレール音を残しながら行き交っていた。
ストラスブールのトラムは十余年前に開通し、現在は郊外とも結び多くの路線が充実して市民の重要な足となっている。そして主な市内道路への車の流入は規制され、車の排気ガス削減にも大きな効果を上げている。

「中世の街並の中でこんなに近代的な乗り物を見ると、タイムマシンみたいだ」
「でも車輪を隠して凄くスマート。音もなく滑るように走るのを見ると全く違和感を感じないわ」
「フランス流美的価値観か、日本だと無理して調和させようと古風なデザインでかえってチープになりそうだ」

 大聖堂に入るとたくさんの蝋燭が炎をゆらしながら二人を向かえた。ひんやりと張りつめた空気と高い天井、そして壁全体に設置された100枚を越える大きなステンドグラスと細密な彫刻は、500年以上も変わらぬ姿で今日も人々の祈りを見守っている。
二人も蝋燭に火を灯し、誰もいない壁際の小さな礼拝室に入った。
「瞬、蝋燭は自分の身を削りながら廻りを明るく照らしたキリストを意味しているらしいよ。だからこうして祈ると願いが届くんだって」
「なるほど、何でもそれなりに意味があるんだな」

二人はそれぞれ長い祈りを捧げた後、椅子に腰掛けて聖堂の厳粛な静寂に心を癒した。
「瞬もお願いする事がたくさんあったのね。今日は何をお祈りしたの?」
綾奈はそういって瞬の顔を覗き込んだ。
「何を、というか、俺は言葉では祈らないよ、だって神は俺が今何を望んでいるか分かっているはずだろう。だからただ無我の心で手を合わせるだけさ」
「瞬らしいわね。でもその瞬の望みって何か教えて。もちろんおばあ様の病状の事は分かるけど」
「それはいろいろさ、綾奈こそ何を祈ったのさ」
「私もいろいろ。でも終わりから2番目に、日本へ帰ってからも瞬とズーッと一緒に居たい、ってお願いしたわ。」
瞬はいきなりのジャブに身体をのけぞらした。
「で、最後は何を」
「瞬と結婚してハネムーンで又ここへ来たいって」
瞬は綾奈のカウンターに椅子から転げ落ちる真似をした。
「参った、相変わらず綾奈のストレートは早いな。それがいつ実現できるか神にしか分からない。俺が頑張らねば」
瞬はそういって綾奈の手を握った。

 二人は一旦外に出て、狭い螺旋階段で大聖堂の塔に昇った。66mの高さから見下ろすと、大聖堂の屋根は青緑の青銅で葺かれ、建物の周りには外壁をつっかえ棒のように支える巨大なフライング・バットレスがずらりと並んでいる。これはゴシック建築特有の工法で、これにより高い天井とステンドグラスの大きな窓も可能となった。
 大聖堂の塔から眺める風景はどこも同じように中世の建物と屋根が連なり、その遥か向こうに緑の丘や田園風景が続く。真下の広場を見ると、丸く花弁を広げたようにカフェのテーブルがひしめくように並び、人々がミツバチのようにうごめいていた。
「さてそろそろ出発しようか。ランスは遠いからな」
 
 シャンパンと大聖堂の街ランスは、ドイツ国境のストラスブールから西へ直線で300km、高速道路A4ではメッスを経由して400km近くあり、バイクでは約4時間を要する。
そしていよいよこのステンドグラス探求の旅は佳境に入いる。

# by june_head | 2008-11-23 02:51 | 第二十四話  

「愛と光と巡礼の夏」第二十三話

「愛と光と巡礼の夏」第二十三話
 大聖堂の朝の鐘の音で目覚めた瞬は、祖母重子の容態を案じ母へ電話した。
しばらくコールしたが出ない。多分病院の中で電話に出られないのだろうと一旦切って待つと直ぐに携帯がなった。
「お婆ちゃんはまだ集中治療室だけど意識はもどったの。でも今自分がどうしてここにいるのか分からずに起き上がろうとしたり、点滴を外そうとしたりて大変。さっきMRIの検査をしたら、小脳の大半が梗塞していて、先生はもうそれは元には戻らないって」
「そうだとするとどうなるの?」
「入院が長くなることと、もう前のような元気なお重さんには戻れないってこと」
瞬はそう説明されても当惑するだけで理解できなかった。
「分かった。帰ったらすぐにそっちへ行く。俺3日前に婆さんに絵はがき出したんだ。着いたら見せてあげて欲しい」
「分かった。私達にも出してくれたの?」
「どうだったかな」
瞬はそっけなくそう告げて電話を切った。

「話しは聞こえていたわ。お婆さま可哀想。瞬、大丈夫?」
綾奈はそう云って瞬の手を握った。
「綾奈、君もパリに電話しなくていいのか?」
「私昨日の夜電話したの。だいぶ良くなって来たみたいだから心配ないわ。私が帰るのを待っているって。私も早く顔が見たい。瞬にも会って欲しいし」

 二人は朝食を済ませ、徒歩でホテルの前を流れるイル川を渡り、中世の建物が並ぶ旧市街に入った。通りにはカラフルな服装のバカンス客が行き交い、立ち並ぶカフェから香るエスプレッソと、人々の賑やかな話し声が朝の街を活気づけている。
 
東へ真っすぐ歩くと10分程で大聖堂前の広場に着く。
12世紀後半から約260年かけて建造されたノートルダム大聖堂は、外壁にヴォージュ山地から切り出した赤砂岩を使い、その色から「バラ色の天使」という愛称がついている。
尖塔の高さは、東京タワーの大展望台に匹敵する142メートル。正面の壁は「石のレース網」と評されるほど繊細華麗な彫刻が無数に施され、ゴシック建築の傑作とまで云われている。
 しばらく聖堂を見上げていた瞬は、恩師鷹山のことが気になり工房に電話した。出たのは鷹山本人だった。

「午前中に終わって今帰って来たところだ。腸のポリープ位じゃ日帰りコースだよ。そろそろ横浜開港記念館の仕事が忙しくなるからな。ところで今どこなんだ」
鷹山の張りのある大きな声に瞬はホッとして、今大聖堂の前に居ることを告げた。
「今そっちは朝だろう、西正面のバラ窓にちょうど良い角度で光が当たる時間だ。黄金色とグリーンのガラスが淡く輝いて実に美しい。聖堂に差し込む朝の光の帯は幻想的で感動ものだぞ」
鷹山の止めどない話しを聞きながら瞬は綾奈に笑顔でOKサインをした。
鷹山は最後にこう付け加えた「瞬、ステンドグラスにはそれを造った聖職者達の祈りがこもっている。天から注がれる光は神そのものかもしれない。そう思いながらゆっくり見て来なさい」

「良かった、いつもの先生以上に元気そうだ。無事に終えてホッとしたんだね」
電話を切った瞬は綾奈にそう云うと聖堂の重い木の扉を開けた。
 二人はそのバラ窓の光を背に浴びながら祭壇の前に進んだ。すると背後からパイプオルガンの音が流れた。振り返ると聖堂の北の壁に太いパイプが並びその音は聖堂の隅々まで響き渡った。そしてその先にステンドグラスのバラ窓が燦然と光を放ち、薄暗い聖堂の全ての壁に配置されたステンドグラスの光が、祈りの人々を包み込むように優しく淡い光を放っていた。

 聖堂内を2時間ほど見て廻った二人は聖堂前の広場に出た。しばらくガイドブックを見ていた瞬は隣りにいた綾奈が居ないのに気が付いた。
振り向くとカフェのテラス席に座る外人女性と話しをしている。
綾奈が瞬に手を挙げて手招きした。
カールした長いブロンドと真っ赤な口紅の女性も瞬に手を振った。
胸の開いた白いシャツに、幾何学模様の短いタイトスカートから伸びた長いレッグラインが眩しい程セクシーだ。斜めに組んだ足の先にブルーのミュールを浮かせてカモシカのように細くしまったくるぶしを強調している。

周辺に人だかりがあり、ライトやカメラが見える。瞬が二人に近づくと
「瞬、昨日お世話になったおまわりさんよ。信じられる?」
瞬は唖然とした顔でその女性の顔をまじまじと見つめた。
「今日はヴォーグ誌の取材でこれから撮影があるの。フランスの婦人警官としてね」
女性はそういってにっこり笑った。
ヴォーグの企画で制服姿とモデルに変身した彼女を載せるそうだ。
彼女は隣に座るディレクターに二人を紹介した。

「良かったら二人もエキストラで参加してもらおうか、あの奥のテーブルに座りなさい」
ディレクターにいきなりそう進められ、二人は他のエキストラに混じって少し後ろのテーブルに着いた。
「いいのかよこんな俺達も写って」
「大丈夫よ私達の姿はボケて見えないと思うわ。でも瞬、すごいよヴォーグだよ」

目の前で進むグラビアの撮影は瞬に思わぬ光の勉強をさせてくれた。太陽の角度、ライティング、カメラの位置、モデルのポーズ。そのカット毎に変わるライティングやスタッフの慌ただしい動きに、瞬は自分がエキストラである事を忘れる程だった。

「瞬、モデルさんの表情やポーズって、中世の絵画が参考になってたりするのよ。ライティングもそうだと思うわ、だからディレクターも写真家もメイクさんも美術館で優れた画家の絵や彫刻を見て、構図やその細かい表現を勉強するそうよ」
なるほど、と感心していた瞬がしばらくして又口を開いた。

「そうか実は俺、鷹山先生の書斎で見つけた本に書いてあった言葉を思い出したよ」

それはアメリカの老舗デパート「ニーマンマーカス」の元社長スタンレーマーカスが40年程前に書いた本「我が心のファッションビジネス」にあった言葉であった。

「本物のエレガンスとは、中世のヨーロッパで、限りない費用と時間と才能を費やして製作されたものだけにエレガンスの評価が与えられる」
である。

瞬は、あらためてヨーロッパの芸術やファッションの奥深さを感じた。

カフェでの撮影が終わると、モデルになった婦人警官と綾奈はメールアドレスの交換をして別れた。
「雑誌を送ってくれるって、うれしい」
「まいったな、いきなり雑誌の撮影に参加できるなんて日本じゃ考えられないよ」
「あれは多分ディレクターさんの直感だと思う。でも私達テレビに出たり雑誌に出たり凄い旅よね」

しばらく街を散策した二人は大聖堂の広場に面しているルーヴル・ノートルダム博物館を訪れた。そこには現存する最古のキリストの顔のステンドグラス「ヴィッサンブールのキリスト」が展示されている。
瞬はステンドグラスの歴史として学んで来たものの現物を、目の当たりに見る機会が得られた事を心から幸せに思った。

「綾奈、俺はステンドグラスを単なる美の表現の素材としてしか見ていなかったと思う。先生の云った作り手の思いを感じて来いと云う言葉が、少しずつ分かって来たよ。でもそれがどんな思いなのか、俺はどんな思いを込めて製作すればいいか、それが分かる迄はまだ相当時間がかかりそうだけど」
「瞬よかったね。でもなんだか瞬が羨ましい。私はパリの両親の心が知りたい。何で二人があんなによそよそしくなってしまったのか」
綾奈は旅を通して少しずつ強く変わって行く瞬に、自分が取り残されて行くような
不安を感じた。
瞬は何も言わずに綾奈の肩を強く抱いて額にキスした。

二人は明日ランスへ向かい、パリ、そして最後にステンドグラスの聖地シャルトルにゴールする。

つづく
次回の第24話は11/20にアップします。

# by june_head | 2008-11-11 02:48 | 第二十三話  

「愛と光と巡礼の夏」第二十二話

「愛と光と巡礼の夏」第二十二話 ナンシー〜ストラスブール

祈りと光と静寂に包まれた聖堂を出ると、まだ眩しい夏の陽射しがナンシーの街並を美しく照らしていた。二人はもう一度聖堂を振り返り、今捧げた祈りが天空の神に届くよう高い鐘楼を見上げて十字を切った。今は祈るしかないと云う母の言葉に、瞬はまだもどかしさを残しながら、フッとひとつため息をつき、黙って歩き始めた。
綾奈は後ろから抱きしめてあげることのできない切なさを感じながら、少し遅れて後につづいた。
しばらく歩くと瞬が振り返り
「どうした、ほら来いよ」
そう云って右手を差し伸べた。
「こいつ、いつもこうだ」
綾奈はそう思いながらもホッとして瞬に駆け寄り手を取った。

ナンシーは15世紀以来ロレーヌ公国として栄え、18世紀中頃王位に就いたスタニスラス・レスチンスキーの情熱的な芸術活動が始まった。そして花開いたのが優美で繊細なロココ様式だ。
ロココは、当時フランスやドイツを中心に広がっていた絢爛豪華なバロック様式を、繊細な曲線で優美軽快に発展させたものである。
19世紀には鉄やガラスで曲線を多様したアール・ヌーヴォーの波が押し寄せ、街はさらに美しさに磨きをかけた。そして今でもパリから遠く離れたこの地を訪れる観光客は多い。
「ヨーロッパでもこの街程アール・ヌーヴォーで調和された街はないわ」
瞬は綾奈の言葉にうなづきながら、建物の細部に渡る精密な装飾技術に何度も足を止めて見入った。

瞬はエミール・ガレのガラス工芸が収蔵されているナンシー派美術館を見るつもりでいた。しかし、その日は月曜でちょうど休館日であった。事前に観光先をしっかり調べて予定を組む観光旅行と違い、二人の旅はタイトな予定を組まない自由な移動の旅である。だからこそ行き先には思いがけないドラマが待ち、その展開によって予定は自由に変更出来る良さもある。

二人はその日開館しているナンシー美術館へ向かった。
スタニスラス広場に面したこの美術館には、ドーム兄弟のクリスタル製品やガラス工芸品が数多く展示され、14〜20世紀頃のヨーロッパの絵画も充実ししている。
200個を越えるドーム兄弟の作品は、単に自由な曲線美だけでなく、アンテルカレール(内部装飾技法)や、ヴィトリフィカシオン(色ガラスの粉をまぶしつける)などの技法を開発して造られ、ガラス工芸の芸術性を飛躍的に高めたと云われている。

「残念だな、出来たらここにもう一日滞在したいけど時間がない」
「私も1ヶ月位かけて街中をスケッチして歩きたいわ」
芸術の街ナンシーの魅力は通りすがりの旅では真に味わうことは難しい。

最後に瞬が恩師鷹山に薦められていたクレディ・リヨネ銀行に入った。百年以上前に建てられたこの銀行の吹き抜けの天井は、一面アール・ヌーヴォーのステンドグラスで覆われている。それはキリスト教の教えと祈りを目的に作られたステンドグラスと違い、自然の草花をモチーフに幾何学的にデザインされたものだ。そのスケールと優美さは銀行の中とは思えぬ驚きの空間であった。
観光コースにもなっているこの銀行には毎日たくさんの人が見学に訪れる。しかし行員達は全く気にすることなく日常の業務を続けている。

瞬はフロアを歩き回り、いろいろな角度で天井を見上げては首をひねり感嘆の言葉を発した。
「美術館でもないのに参ったな。デザインもすばらしいけど、この大きなガラスをどうやって広い天井に設置しているんだ」
「ここでは天井裏も見せてもらえるよ」
以前訪れたことのある綾奈は得意げに云って瞬の手を引いた。
アール・ヌーヴォーの階段を登り天井裏に入ると、まるで飛行船の内部のように太い鉄筋と細い骨組みががっしりとステンドグラスを支えている。その構造を瞬は細部に渡り写真を撮った。いつかこんな仕事に携わる機会が来るかもしれない、と願ったからだ。

「この製作費は、この建物一棟分と同じ位かかるはずだ。芸術に対する価値観がすばらしい」
「それは昔も今も変わらない。フランスは50年前に、文化や芸術を重要な国家政策として文化省を作ったの。そして毎年国家予算の約1%を使って、国内だけじゃなく広く海外からの文化や芸術も受け入れているのよ。ルーブル美術館の大改造では中国系アメリカ人が設計したガラスのピラミッドが造られたし、菊名の小父様がパリに留学できたのもその恩恵でしょ」
「なるほどね、残念だけど日本とフランスは根本的にその姿勢が違う。日本も景気の良かった頃はコーポレートアートだとか、クラシック音楽ホールだとか芸術を重んじる時代があったけど、今の景気じゃそんな予算は真っ先に削られているから」
「そうだ開港記念館のお仕事は進んでいるの?」

瞬はそう云われて菊名の工房に思いを馳せた。工房は横浜市の開港150周年記念事業の一環として、開港記念館のステンドグラスの修復工事を請け負っていた。開港記念館は大正6年に建造されたが関東大震災で大きな被害を受け、昭和2年に修復された際にステンドグラスも再生された。しかし80年の時を経たステンドグラスの痛みはひどく、その修復は150周年記念の重要事業となった。

6月に痛んだステンドグラスを全て取り外し、ガラスは超音波洗浄で元の輝きをとり戻した。剥がれた絵の一部は絵付けをして焼き直し、朽ち果てた鉛の桟を全て新しくして、8月から徐々にその設置が始まる。来年春の完了を目指し記念館の地下は今その修復工房と化している。瞬も帰国するとすぐにその現場に入る。

修復は新しく制作するよりさらに高度な技術と経験が必要である。瞬の恩師鷹山はパリ留学でヨーロッパステンドグラスの古典技法を習得し、修復の実績も多いその第一人者である。
「勉強の旅はこれからが本番だけど、記念館の仕事も気になって来たよ」
「あわてなくてもあと一週間で帰れるでしょう」

太陽が建物の向こうへ隠れ始めた夕方5時、二人は150km東のストラスブールへ向け出発した。夏の太陽が沈むのは夜9時過ぎ、遅くとも夕食時間には到着する。バイクは直行する高速道路を避け、国道を南東に向け走り、バカラ経由で今度は北東に向けストラスブールへ向かうコースを選んだ。

バカラはその名の通り高級クリスタルの発祥地だ。
18世紀頃、ヴォージュ山脈に位置するこの村には広い森と清流があり、工場のエネルギーとなる薪と水力に恵まれた環境がガラス製造に適していた。当初ワイングラスの製造で始まった工房は高級クリスタル製造の工場へと発展し、ルイ18世をはじめ、国王、ナポレオン三世、後の大統領等への御用達として世界のクリスタルガラスの地位を築いた。

 緑の山に囲まれた村を幾つも走り抜け、道はカーブが連続し、二人はそれまで走って来た広い国道や高速道路と違うアクティブなバイク走行を楽しんだ。
タンデム走行は連続するカーブでのバランスが難しい。綾奈は身体を瞬の背中にピッタリ合わせ、一緒に身体を倒し、起こし、そして又反対に倒す。
対向車線のあるカーブでは少しのはみ出しが事故に繋がる。瞬はカーブの入口で慎重にスピードを落とし、3速に落としたギアーで的確なコース取りを測り、そしてカーブの後半でスムースにアクセルを開く。
瞬は背中に感じる綾奈の自分への信頼と、自信あるコーナリングテクニックで、きれいなS字の放物線を描く達成感に気分は爽快だった。瞬は背中に伝わる綾奈の温もりが、次第に熱く、強く、離れる事のない絆に変わっていくように思えた。

バカラにはクリスタルガラスにまつわる博物館や教会もある。しかし既に閉館時間が過ぎ、二人は村をバイクで一周し又ワインディングロードに戻った。

カーブの多い山岳地帯ではスピードが出せず、ストラスブール到着は日没の9時半頃であった。街を囲むイル川を渡り少し走ると前方にライトアップされたノートルダム大聖堂が見えた。さらに近づくと大音量の音楽とサイケデリックな光の映像が大聖堂正面の壁をスクリーンにして激しく映し出されている。聖堂前の広場やそれに続く道は人で埋まり、バイクではそれ以上前に進めない。

「ライトアップと云うか、こりゃ前衛的な映写会だね」
瞬は日本のお寺や神社では考えられないその光景に、瞬は改めてフランスの芸術に対する懐の広さを感じた。
「綾奈、明日が楽しみだよ。2泊してこのストラスブールをゆっくり探索しよう」
二人はそうしてホテル探しを兼ね、イル川に沿ってバイクで街を周遊した。

半径200〜300mのイル川とその支流に囲まれた旧市街は入り組んだ路地が多く、道に迷って入った路地で対向車からパッシィングを受けた。端に避けてやり過ごそうと止ると、対向車は目の前で停車し人が降りて来た。警官だった。
「一方通行だよ、免許証を見せて」
よく見ると婦人警官だ。瞬がしぶしぶ国際免許証を出すと警官の表情が一瞬緩んだ。「ジャポネイゼ?」
その言葉に綾奈が車から降りて空かさずフランス語で話しかけた。
「私達は日本の大学でフランス文化を研究しています。是非一度ここを訪れたくて今着いたばかりで、ホテルを探していたの」
綾奈の流暢な、いやネイティブなフランス語に婦人警官は唖然とした。
「すばらしい発音ね、日本人はインテリジェンスと思っていたけど驚いたわ。ホテルなら紹介しましょうか、予算は?」
 二人はパトカーの後に着いて走り、2〜3分で2ツ星の小さなホテルに案内された。
「驚きだな、この親切さは観光国ってことかな」
「それもあるし、最近日本人に対する好感度も高いのよ。でもあくまでもお客さんとしてであって、尊敬の意味ではないと思うけど」
「微妙な表現だね。だから日本人がフランスで仕事するのは難しいと云うことなのかな」
「決して平等ではないと云った方が近いかも知れない」
「フランス国旗の色は、自由と平等と博愛を表しているんじゃなかったの」
「それはあくまでも基本精神で、今のように移民や違法滞在の外国人に仕事を取られて失業者が増えると、そうは云っていられないようね」
「そうか、日本人はお行儀よく観光して、高いブランド品をどっさり買い込んで帰る良いお客さんと云う認識か。まあそのお陰で助かったんだからしかたがないね」
 
 二人はチェックインを済ませ再び街に出た。イル川に沿って少し歩くと、すぐ川向こうにアルザスの伝統家屋が密集するプチット・フランスが見えた。白い漆喰と木組みの家屋の窓からもれる仄かな灯りが、緩やかな流れの川面に映り揺れている。

ストラスブールはドイツ国境に接し、歴史的にフランスとドイツが常にその領有権を争い、何度も行き来した後1944年に連合軍の勝利によりフランスが奪回した。ドイツ語ではストラスブルグ「街道の街」の意味があり、今でもドイツの面影が色濃く残る街だ。

 瞬は綾奈の肩を抱き、綾奈は瞬の腰に両腕を回し、二人は仄かな街の灯りを数えながら幸せな時間を過ごした。
「瞬、やっとここまで来たね」
「そう、今日も結構走った。パリはもうすぐだし」
綾奈は自分達のことを云いたかった。しかし綾奈は瞬を見上げて微笑んだ。
「瞬は今のままでいい。そんな瞬が好きだから」
綾奈はそう心でつぶやき、瞬の唇に強く自分の唇を重ねた。

つづく
次回は11/10アップの予定です。

# by june_head | 2008-11-04 02:13 | 第二十二話